『水を預かる』淺川継太

抜群に面白い。出色の出来で、短編「競」作とうたっているわけだからそれに乗っていえば栄えある一等賞はこの作品だ。真に豊かな発想を持っている人は、話作りに文体に頼らなくても面白いものが書けるのだ。
何しろ本当に何もないに等しいのだ。ただ単に同じアパートに住む女性から大量の水を預かってくれと言われ預かっただけ。起こるのはそれだけ。そこから主人公がさまざまに推理や果てや妄想を膨らませていくのだが、それが面白い。とくにその女性がオーディオマニアであって、この預けた水が何か役割を果たすんではないか、とかドアにぶら下げられた傘も何かの役割をしているのか、という所などは、んなアホな、と笑わせて頂いた。
で、アホな事言うなや、とただ笑って突き放すのではなく、いつのまにか作品世界に引き込まれ、主人公の悩みの軌跡を一緒にたどろうとしている。たんなるユーモア小説ではなく、いや語源的には人間くさい小説なのだからユーモアでいいのか。要するに言いたいのは読者の笑いを取るのは、ここではどちらかというと副産物だということだ。
基本的には、他者との距離感のその伸び縮みにおののき、恐る恐るその距離を測りたいという、コミュニケーションの営みを描いていて、だからこそ読者は作品世界に乗れるのだ。営みを丹念に、どんなに些細なものも見逃さずに描く。ここまで意識することあったっけ、というくらい繊細に描く。おそらくわれわれの多くはこんなふうに他人に接しているはずなのに、ここまで丹念に言語化することは稀だろう。そうして言語化しないうちに年を取り、鈍い趣味人間になったりする。そしてカント的にいえば、人を目的ではなく手段として扱ったりするようになる。妻は身の回りを世話する機械となる。
この作者は、水を預けた女性のことをずっと考える。まさしく人を目的として扱うというのは、こういう小説のような態度のことを言うのではないか。ちょっとエロティックな表現などもあったりするのだが、とても倫理的にまっすぐで公平感を感じさせる小説だ。
ただしまっとうな思いばかりクソマジメに書いていては退屈で作品として成立しない。おもしろおかしい副産物があることが、また良いのだ。マジメでかつ遊び心があるというのは、なんて豊かなんだろう。