『トゥンブクトゥ』山下澄人

しょうもない言葉遊びはなくなったのだけは良かったが、前作で書いた事以外に書くことは殆どない。ようするに、何の区切りもなく視点を切り替えたり時空を行き来するような、読者を自由にするというよりは結果として混乱に縛りつけるような「技術」以外に、いったいこの作家に書く事があるのか、ということだ。
(ところで、いつもこの作家のことを悪く書いているが、それでも私は読んではいるのだ、ということは念のためここで書いておきたい。以前とは異なり、文芸誌に載っていても全部は読んでいない。それらの読んでない作品の評価よりは、まだこれはマシということなのだ。)

『寺部海岸の娘』広小路尚祈

地方の工場労働者の話。というと暗い何かを予感させるが、東海地方といえば北陸の一部とならんでじつは世界有数の技術集積地帯でもあるし、実態以上に深刻方面に傾き加減になるのも文学の陥りやすいところで、この作者と同年代かそれ以上の年代の者にとっては、それなりに俺らはまあまあという感じでやってるぜというところではあるだろう。こういうのが書けるのもこの人の持ち味だし、さらに持ち前のユーモアが楽しく読ませてくれるのに寄与している。とはいいつつも、やはりこれほど全面的に屈託がないなんてことはいくらなんでもないだろう。この小説なりの役割はじゅうぶん果たしているが、現実には迫っていてもその心底に達しているかどうかは留保が必要という気もしてくる。

『こなこな』原田ひ香

いっけん何のこと?と思わせる題名で、こう思わせただけで、お笑いでいえば掴みにあたるそれは成功しているのだが、ぶっちゃけ料理の材料の粉のこと。ふだんの料理で粉そのもので何かを造形することなどなく振りかけるか少量混ぜ込むかくらいしか使わないので、油がオリーブオイルとゴマ油、キャノーラ油しかないごとく、粉も薄力粉と片栗粉しか買わない私には、この小説で初めて聞くようなものもあって、粉も色々あるんだなと思ったものの、金持ちが興味を持ちそうな道楽には総じて興味がない私は、この小説を読んだ後も大きいスーパー行ったところで何が売られているかも確認していない。それにしても、キャッチーな何かを前面に出したり、敢えて庶民の場所まで媚びて下りずに自らに近い世界を書きだしてから、この作家にいやらしい所はなくなった。読める作家になった。何度か書いたとは思うが。

新人賞受賞作『最後のうるう年』二瓶哲也

2作受賞となるとつい比べて語ってしまうのだが、上記作品になくてこの作品にあるもの、それはうまく表現できないが、ある倫理的な何かだと感じる。小説技術的には上記の作品のほうがむしろ感心させられるところがあったし、この作品は無理に「お話」を作ろう的なところがあり(あの有名な宗教団体がでてきたりするようなところなど)ラストのオチなどやや荒っぽさもある。またそのラストのせいもあって複数登場する男性人物の性格・位置付けがうまく伝わらない感じもある。ようするに少し混乱の気配もあり完成度という観点からは今すこし改良が必要かもという感じもあるのだ。にもかかわらず、この作者には信用していい基本的な態度があるように思う。世に対してたんなる観察者ではなく、それと関わりそしてただしく憎んでいる(それは裏返せば愛するということにもなろう)。これは結局小説家というものになりたいだけなのか、それとも書きたい何かがあるのか、の間に横たわる絶対的な差にもつながるのだが、世に対して背を向けるようなことのないような人間には、真に書きたいことなどありはしないだろう。もっとも書くことが世を愛でるひとつの活動であるような人もいるだろうから一概には言えないのだが。風俗の裏事情だとか宗教だとか人目をひくような題材・方法を使わない作品を読んでみたい。

新人賞受賞作『隙間』守山忍

一日一日で区切りつつも、その都度変化を加えた話の入り方をしたりして、技術的にはじゅうぶんなものを感じさせる。文章の隅々まで気を配られている感じもしたが、いかんせん、ここまで何も起こらない小説では、これまでの受賞作などに比べちょっと拍子抜けだ。短編を膨らませただけのような気もする。夫婦の感情をそれぞれの視点から語らせるのもありきたりと言われてしまう程度の範囲のものだし、心理内容もあまり掘り下げられたようなものはなく、読むほうは揺さぶられない。

『クチナシ』馳平啓樹

前作や、前前作にあったような、登場人物のまわりの空気に自分もまた囲まれているような鮮烈な印象は受けなかったが、こういう「特異さ」を競わない、三流私立を一浪して就職したような中層のひとたち、夫婦のすれちがいをリアリズム小説としてきっちり作品にして、それが載るということは是非歓迎したいと思う。それにしてもね、ハゲというのは悩ましい現象ですよ。

『夜を吸って夜より昏い』佐々木中

担当編集者と、文學界で新人小説評をしている方、以外に、この小説を最後まで読みとおした人はどれくらいいるんだろう。文語調というか詩というか、読みづらくてしかたなく、前半だけであまりにつまらなく2回は寝ただろうか。まさか金井美恵子のほうが読みやすいと思うような作品にであうことなんてないだろうと思っていたが、しかしだからこそ意地になって読んだけど、途中から、もうこれは小説というものにたいするギャグに近いものではないかと思わざるをえなくなってきて。(ただし全く面白くなく、苦笑という感じでしかないんだが。)だってだよ、たかだかボディーソープだかエッセンシャルオイルだかの匂いでやたら濃密な感想を綴ってくれちゃったりするんだが、そんなに匂いだの光だの物音に感受性が鋭かったら、日常生活疲れて仕方ないだろうにっつう。(たえず悪臭のなか嘔吐や排せつの処理している介護職の人やゴミ収集の人はどうなるんだろう。)あるいは、コレいったいなんのこと書いているんだろうと二段組みの一段にわたってつきあったら、たんにポケットの中の携帯がバイブしただけという。逆にいえば、携帯がバイブしただけのことをこれだけ長々詩的に綴れる人はいないから貴重なのかもしれないけれど、ただただ呆れて少しもそういう気持ちもわかない。
とまあ、文章は立派で味わい深い?のだが、中身はちょっと女性の影が差したりするものの、インテリに属する主人公が一時期盛り上がっていた首相官邸前再稼働反対デモに参加するだけのはなしです。あの、いままで散々「何もないよ」と地方に押し付けてきて、何かあったらこんどは、「何かあるかもしれないから」と地方に原発停止を押し付ける都市住民の身勝手な活動のことです。とはいえ、「老人も子供も作家できるデモらしくないデモを」みたいなことがあれに関しては言われていたように記憶していて、これだけの人が集まっているのに皆整然としているのが評価されたりとか?もあったようで、それに対してはこの小説、強烈なNOを発しているように思える。そこだけは評価してみたい気もする。どこがNOかといえば、ネタばれになるけど、私のブログを参考にする人も超少ないだろうから言ってしまえば、ゴディンジェムにたいする僧侶のようになってしまうんですよ、登場人物の一人が。レイジのファーストアルバムでも使われたあの有名な奴です。首相との面談にこぎつけだだけでガス抜かれてしぼんだ運動のことを思えば、作者の危惧は正しいし、原発が生活に直結した地方の生活を奪うなら、奪う方もそれなりのものを失えってのはもっともな事だろう。悲しいのは、生命至上主義の色彩も濃い反原発運動には、この小説の結末のようなことが起こるのは望みえないことで、インテリの遊離を示すものでしかないということ。文学的という意味では昔からありがちなのかもね。