『夜を吸って夜より昏い』佐々木中

担当編集者と、文學界で新人小説評をしている方、以外に、この小説を最後まで読みとおした人はどれくらいいるんだろう。文語調というか詩というか、読みづらくてしかたなく、前半だけであまりにつまらなく2回は寝ただろうか。まさか金井美恵子のほうが読みやすいと思うような作品にであうことなんてないだろうと思っていたが、しかしだからこそ意地になって読んだけど、途中から、もうこれは小説というものにたいするギャグに近いものではないかと思わざるをえなくなってきて。(ただし全く面白くなく、苦笑という感じでしかないんだが。)だってだよ、たかだかボディーソープだかエッセンシャルオイルだかの匂いでやたら濃密な感想を綴ってくれちゃったりするんだが、そんなに匂いだの光だの物音に感受性が鋭かったら、日常生活疲れて仕方ないだろうにっつう。(たえず悪臭のなか嘔吐や排せつの処理している介護職の人やゴミ収集の人はどうなるんだろう。)あるいは、コレいったいなんのこと書いているんだろうと二段組みの一段にわたってつきあったら、たんにポケットの中の携帯がバイブしただけという。逆にいえば、携帯がバイブしただけのことをこれだけ長々詩的に綴れる人はいないから貴重なのかもしれないけれど、ただただ呆れて少しもそういう気持ちもわかない。
とまあ、文章は立派で味わい深い?のだが、中身はちょっと女性の影が差したりするものの、インテリに属する主人公が一時期盛り上がっていた首相官邸前再稼働反対デモに参加するだけのはなしです。あの、いままで散々「何もないよ」と地方に押し付けてきて、何かあったらこんどは、「何かあるかもしれないから」と地方に原発停止を押し付ける都市住民の身勝手な活動のことです。とはいえ、「老人も子供も作家できるデモらしくないデモを」みたいなことがあれに関しては言われていたように記憶していて、これだけの人が集まっているのに皆整然としているのが評価されたりとか?もあったようで、それに対してはこの小説、強烈なNOを発しているように思える。そこだけは評価してみたい気もする。どこがNOかといえば、ネタばれになるけど、私のブログを参考にする人も超少ないだろうから言ってしまえば、ゴディンジェムにたいする僧侶のようになってしまうんですよ、登場人物の一人が。レイジのファーストアルバムでも使われたあの有名な奴です。首相との面談にこぎつけだだけでガス抜かれてしぼんだ運動のことを思えば、作者の危惧は正しいし、原発が生活に直結した地方の生活を奪うなら、奪う方もそれなりのものを失えってのはもっともな事だろう。悲しいのは、生命至上主義の色彩も濃い反原発運動には、この小説の結末のようなことが起こるのは望みえないことで、インテリの遊離を示すものでしかないということ。文学的という意味では昔からありがちなのかもね。