『ポエティック・クラッシュ』高原英理

2人の現代詩人が、都心の大型書店で講演会というか討論的なものを行い、そこで色々「いま」の文壇(詩壇)の状況などについて語る、ほぼそれだけの話なんだが、これは事実をそのまま、例えば固有名詞を入れ替えるだけ書いてしまうと角が立ちそうなところを、非常に上手く再構成して書いていて、面白かった。事実か架空かといえば、この現代詩人の著作の詩集の題名など、どちらかといえば、ありそうもないに近いのだけれど、批判すべき所では、きちっと現実を踏まえている感じ。だから、オイオイこの詩集の題名は、この詩は、酷すぎないか、と少し笑い楽しみつつ、小説や現代詩が置かれた現状について考えさせられもする。
アルティスム云々での「事実」に関する議論や、作者に勝手に自分の惨めさを投影するな、という所の議論もまあまあ面白かったが、一番引き寄せられたのは、「わたしたちの詩は、『戦前詩』なのです」という議論のところ。私はこれをけっこう説得力のある議論だなと思って読んでしまった。どの程度説得力あるのかは、私の感覚はあまり当てにならないので、実際読んで欲しいのだが、先の大戦後あれほどあった戦前への批判がいま忘れ去られつつあるのではないか、という事。
つまり今の時代、強烈な閉塞感が日本を覆っていることは確かで、しかしその閉塞感におもねったような言動を安易に我々が受け入れ、「共同体」が復活して「何か」あった場合、それをどう責任取るのか、と。「何か」というのは、このあいだは戦争だったけれども、そんな分かりやすいカタストロフィではないような別の悲惨な事態が訪れないとは言えない。そして、その事態がなんとか再び収束したとき、後世の人間から責められるのは、いまの私達ではないのか。
「格差問題の解消にはナショナリズムが必要」なんて事が言われてしまう昨今だから、これはたんなるパロディには収まらない訴えがあると私は思う。
大げさだよという人もいるかもしれない。確かに。しかし、時代におもねるつもりは全くなくても未来からみれば結果としておもねってしまっているような事がありえるということだ。つまりもちろん、すべて結果論でしかない。しかし罪は問えなくても失われる命があるのだ。
むろん少なくとも誰も時代におもねっているつもりはないだろうから、おもねるな、では意味がない。自らの言論が、常に時代的制約のもとにあること、この時代ならではのものでしかないそんな程度のものだということを常に念頭においておく事だ。とくに昨今のネット社会では、自らの言論・思考に、何ものからの制約も認めないような「超人」があまりにも多すぎる。