『これはペンです』円城塔

群像の鼎談で、残るもの、古典的なものを書くことには興味がないというか、書くつもりはないというか、そんな発言をしていた記憶があるが、そんな著者らしい作品。問題意識が、いかにも今的な、WEB時代の文学とは、みたいなところにある感じで。
つまりは、これはペンです、という題名にそれがよく出ているのだ。ちょっと前に翻訳可能なものしか生き残らないみたいな議論が盛んになされていたけど、「これはペンです」といえば翻訳文の代表も代表だろう。"This is a pen"。これ以上、付け足すものも引くものも何もない完璧な定型文。で、きたるべき文学も、WEB時代になったのだから、流通はそぎ落とされそのような「完璧な一つ」に近づいてもおかしくないのでは、みたいな話になっていく。なにせラスト近くになって、「書く行為というものが真実存在するなら、いつでも同じものが出力されてくるはずだろう」みたいなことを書いてるのだ。
無論、そうはならない。しかし、小説が同じものに決してならない事について、それがなぜかは棚上げし、たんに不可解なこととしてこの小説は扱っているかのように見える。あるいは、著者は小説がそれぞれ違ってしまう事について、それが素晴らしいことだと言いたいのかも知れないが(そうでなきゃ小説なんて書かないだろうしね)、婉曲すぎて全然伝わってこない。これではね。
「無論ならない」とか、さも当然のように書いたが、小説が成立したころの近代文学はともかくも、現代における文学はなにより定型からいかに逃れるかがレゾンデートルのようになっていて、自明のように思えたからである。人と違うものでありたいという人々の思いが文学を支えている面は絶対にあって、そうであるかぎり、杞憂は資本が今後どのような形で集中するか以外にはない。(といってもそういう杞憂だからこそ大きいんだけどね。)
途中の「叔父」についての種あかしもそれほど面白くなかったが、ラスト数ページの議論にはとくについていけないものが残った。料理や音楽と比べて小説は同じ事を繰り返せない、と言ってみてもねえ・・・・・・。
だってそれらでも同じ事繰り返してないもん。確かにチャーリーパーカーの曲(音符)は繰り返すことが出来るけど、あれと同じ演奏をすることは出来ないし、カレーライスは繰り返せるけど、ジャガイモとタマネギと豚肉で何か作れといわれたら、中華風に揚げ炒めして黒酢足す人もいれば、肉じゃが作る人もいるだろうし。ジャズなんかソロの小説数は同じでも演奏ごとに毎回微妙に違うよ。
小説と例えば「〆鯖」を比べるから、〆鯖はいつも同じ〆鯖だ・・・、と不可思議なところへ行ってしまうんであって、「小説」と比べるべきは「鯖を使った料理」なんじゃないのかなあ。そんなことを考えたのであった。
(ところでこんな小説の感想よりよほど書いておきたいのだが、〆鯖も鯖塩もいいが、私が作る鯖味噌は絶品である。大根と煮たりすることが多いのだが、コツはきちんと落し蓋を使うことと、30分以上煮てから一度完璧に冷ますこと、そして鯖を煮る前にきちんと熱湯を掛けて臭みを除くこと。何よりこの3つだ。高価な味噌など使う必要はない。そして私オリジナルなところは、背骨の脇の小骨も丁寧に全部取り除いて、味がしみやすいように小さく切って煮ることだ。一口半くらいの大きさ。じゅるる。)


以下は、この号の気になった所だけ。