『群像』 『新潮』 2009.8 面白かったもの

思想地図だか何だか、言及だけはよくされるので耳にした事があるものの、全く読む気がしないので分かりませんが、東浩紀さん周辺の人と見られる人の評論が新刊案内なんかでもよく紹介されてますね。
で、どうもその辺のひとたちは、現実をより正確に捉えているか、あるいは現実からの出口を正しく示しているか、が文学(作品)の評価の基準になっているかのようなんですが、なんか違和感を抱きつつあります。それじゃ最初から社会学とかそのへんの社会科学とやらをやってりゃいいじゃん、みたいな。
(ま、私もそんな評価基準でしばしば書いたりしてますが、言い訳すると、現実を捉えようという志向が強いものについては、その可否を論じてしまいがちではあります。)


言い換えると、文学をその有用性において強く見る傾向がさいきん強い。ような。
これってしかし、いまさら気付いたんですが、いかにも時流の枠内の議論じゃないかなあ、と。
例えば先日も書きましたが、「民間ではありえない」みたいな、何でもかんでも無駄を省くことが至上命題みたいな世の中だからこその、昨今のそういう文芸評論の有様ではないか、と。
例えばバブルの頃だと、知と戯れる、みたいな言い方が流行したりして、無駄な遊びはそれほど忌避されていなかったのと、全く逆のことが今の言論界では起きているかのようです。


結論としては、あの時代に知と戯れるのがいかにも馬鹿げていたかを思うと、ますますこの周辺の人達の書くものを読みたくなくなりますね。間違っても影響されたくないな、と思います。
(いやはや私も「紙の無駄」とか書いているのですが。)


現在発売中のなかから少しだけ。