『母子寮前』小谷野敦

以前私が読んだ作品は、登場人物の名前からしてもう少し小説寄りだったが、この作品は「あっちゃん」などとなっていて、最早エッセイと区別が付きにくいものとなっている。また、執筆時の作者の信念なのか、その出来事があったときに思った事なのかの区別があいまいな箇所があることも、それを助長している。ブログを含め、この作者の書くものにある程度親しんでいる人間にとっては、なかなか小説として評価しづらいものが正直あるのだ。
逆にいえば、小谷野氏の書くものを日頃から面白いと感じる者は、シームレスにこの小説に入り込め、面白いと感じるのではないか。私の面白い評価も、半分以上はそういうものだ。途中途中で現在の作者の信念らしいものが顔を出しても、作者のキャラを背後に了解してしまっているので、それで混乱したり読みつらいという事はない。
で、残りの半分の面白さはなにかといえば、ガンの進行とともに発生する様々な医者や関係者とのやりとりが克明に記録されている点で、例えばターミナルケアというものはどうあるべきかなど、一般的な共通の課題として、読む価値は大いにあると思う。また、母親が、明らかに末期にあるのに、自らをも欺くかのように、自分がもっと長く生きることを前提とした事を言う所(市営住宅云々)なども胸を打つ。作者は、病状などについて、本人への告知をしすぎではないかと疑問を述べるが、こういう今の医療のあり方が逆行するとは私には思えず、ならばこそ、告知されてしまう人−死を覚悟した一人の人間の振る舞いをこうして小説という形にしてくれた事は、意義がある。こういう事態は自分にも、自分の大切な人にもいずれ訪れるのだ。
また、経済的な理由が生き方に大きく作用した時代に結婚した世代の人々の、想像以上の意識のすれ違いを露にしている、という点でも意義がある。ラストで明かされる、イワシばかりむしゃむしゃ黙って食べる父親と、それを悲しくみている母親の、その光景に、他人事ではないものを感じる人も多いのではないか。
ということで、この小説では、父親との関係も大きな要素なのだが、こういうのもあるんだなというくらい作者との関係は冷えていて、世間的にみれば余り無いような特殊な状況を呈示されたというような意味での面白さをこの小説に与えてはいる。しかし、読んでいる側としては、作者ほどには父親を敵視する立場にたてない。もう少し彼(父親)からみた思いというものがあるのではないか、と思わずにはいられない。
この小説の私にとっての難点はそこにあって、作者の立場、思いを一貫して打ち出すのならそれでいいんだという事になるのだが、ところどころ、作者の評論家としての中立的な記述があるだけに、父親にも幾ばくかの立場があっても良いのではないか、と思ってしまうのだ。たとえ「狂っている」にせよ、そこに全くシンパシーがなくなるという事はないだろう。(シンパシーを欠くとすれば、むしろ肉親だからかもしれない。)母親に対する愛情は、マザコンというほど行き過ぎたものでもなく一般をそれほど超えていないため、中立的な記述があってもバランスが崩された感じはないのだが。
あとこれは、欲をいえばなのだが、重苦しい話が展開される中、昔の思い出と合わせて吉川の川の合流の光景を描いた部分など、もう少し詳述しても面白かったように思う。母親の死にぎわにも変化、光景を与えられたのではないか。妻に「どうってことない」と言われて、それにたいして作者の感慨が何もないのは、氏のスタイルらしいとはいえ、淋しすぎる。