『ロスジェネ芸術論』杉田俊介

にんげん何が嫌かって、自分を分かってくれないことより、分かってもいない人間が分かったかのようにふるまうことなんだな、って。この号の「すばる」で、飛びぬけて醜悪なこの評論を読んでそう思ったものだ。
「もちろん今のぼくらの手元には限られた資料しかない。」と書いてるが、ならば、事件直後で皆がこの事件について誰もが何か書きたいような時期ならともかく、相当な日数が経過してしかも裁判も現在進行でやっているのだ。ならば、その推移を見極めてから冷静に振り返れば良いのではないか。
まあ、あくまでこれは結果論、後だしじゃんけんかもしれない。おそらくこの号の「すばる」の原稿の締めには間に合わなかったのだろうが、7月末のニュースでも知られるとおり、秋葉原事件の被告は情状で不利になるかもしれないことすら省みず、三つの原因を挙げ自らの犯行が派遣切りとは関係ない事を明言している。これは、ちょっと予想外の被告の言動だったのかもしれないからね。
一所懸命「君」付けして分かってあげようとしているくせに、「労働」についてまず語ってしまうというこの評論の的外れは、無理もなかったのかもしれない。
しかし、東だの赤木だの、今の時代に歓迎されている支配的な言説を主に参考にして、秋葉原事件の被告を一般性のなかに回収しようとしている点は気になるな。ひとつの特異ではなく、ある社会性のなかであの事件があったと考えるならば、その時代に支配的な言論こそが、被告にとっては敵かもしれないのに。この手の無神経さが、勝手に分かって、予想外に裏切られたりすることに繋がるんじゃないのか。
むろん、当事者でなければ最終的にはきっと分からない。それぞれのこの事件の解釈は、それぞれが勝手につけていくしかないのだろう。たとえば、当事者の思惑とはべつにこの件をきっかけに労働条件の見直しなどが進むのは悪いことではない。しかし、この事件の一回性、個別性は、当事者とその周辺に残り続ける。
と、ここで感想は冒頭にループする。分かられてしまうことの不快。支配的な言説でひとりの人間を語ってしまう不快。
後出しジャンケンで申し訳ないが、これはこれで勝手な解釈として書くが、秋葉原事件の被告は掲示板でのなりすましに一番悩んでいた所から類推するに、会った事もない奴に「君」づけされたり、勝手に寄り添われたりするのって、一番嫌がられそうな真逆の行い、じゃないの?