『タダイマトビラ』村田沙耶香

読み終わってまず感じたのは、すごい腕力というかなんというか、とにかく力を感じさせる作品だな、ということ。この印象はその殆どがラストにかけての展開から来ている。そのまんま突っ走ってしまうとは、という。
あるいは、押し切ってしまうとは、といっても良いかもしれない。これからどのようなゴールがあるのか、あるいはたどり着けるのか、そもそもゴールなんてあるのか、というような状況で、よろよろになって水分補給所にたどり着くかと思いきや、実はターボがあったんです、みたいな。
というのは、今回は「家族」がテーマなのだが、これまでの「性」をテーマにした作品では、そんな簡単にゴールしてなかったような記憶が残っているからだ。もしかしたら、過去の作品の、あのクッションを相手に愛撫を試み涙を流していたシーンが私のなかに強烈に残り過ぎているのだろうか。
先走って書いてしまったが、今回は「家族」がテーマ。
最初に娘を愛することが出来ない不器用な母親が描写されるのだが、こういう母親のキャラに関しては、村田作品ではやや馴染みとさえ言えるものだけに、正直「作られ」感もあったりするのだが、彼女が登場するところを読んだ段階で、この作品を嫌いになれない。その本当のところがなぜなのかは自分でも分かりきっていないが、よく文学にありがちな同姓としての違和というものを超えて、根源的な「生」への違和にそれが根ざしている、そんな気配を感じるからだろうか。こういうと語弊があるかもしれないが、「よくも生んでくれましたね、こっちは生まれてきて苦しいだけなのに」みたいな。
つまりここにもう村田の作品の主人公の「受け入れがたさ」が、その萌芽がすでにあるのだ。今回は「家族」をそのまま受け入れられない人物が主人公だが、それが以前の作品では「性」であった。これらは、つまりは「生」そのものが受け入れがたいということではないか。
なぜ女としてたとえばオトコに欲望を感じなければならんの、とか、なぜこの親に育てられなきゃならんの、という問いはいずれ、なぜこの体に自分が限定され、そして死んでいかなきゃならんの、というところまで行き着く。そしてそれは、だったら最初から生まれてくるなよ、自分!というところまで。
これは近代的自我の絶対的に逃れがたい所だが、切実さを欠いた単なる認識としては、ときに幼いものと感じざるを得なかったりする。いわく個人というものは本来的に自由であって、無限定であるべきで、ゆえに何物にも縛られたり囚われたりすることはない、みたいな。
今は個人を実体としてというより社会のなかの関係のひとつ(ネットワークの結節点みたいな)としてみるような、あるいは、純粋に外側に観察者して立つことが無理な存在であるようなものとして捉えるのが、言論界の主流なのかもしれず、また、文学も、自由な個人といったうような平明な近代的合理性を疑うことが、その存在理由だったりもする。たとえば、宗教的なものであるとか、土着的な因習であるとかそういう非合理なものに囚われてしまうものとして、人間を描く。
では、今更ながら近代的な合理性にこだわり、性や家族を外部として、ましてときに自分が選択すらできるものとして描こうとする村田という作家は、トロい、反・純文学の人なのか。
しかし、ここにはしかし、さきにも言ったように、切実さと過剰さがある。因習や霊的なものに囚われざるを得ないのが人間であるいっぽうで、近代性からも逃れがたいのが近代の人間なのだ。平明な近代的合理性を疑う一方で、その足で、平明に非合理性を肯定してよいものではないだろう。
そしてついでにいうならば、こと「家族」に関しては、それは必ずしも前近代的な非合理ではない。むしろ近代になって家族や血というものがクローズアップされた面があるのではないか。そして民族も。(たとえば西欧人は、おそろしく家族というものを大切にする。)
全き自由な個人というものを創造しておきながら、けっきょくそれではやっていけず、その存立を阻害するシステムも強化してしまっているのだ。ここには生物学など科学の発展による「自然」に対する見方も影響しているかもしれない。同性愛や子供を生まないことに関して議論すると、必ずどんな動物だって子供を産んで親が育てているみたいな事をいう輩がいるものだ。
まったく何のための近代だ。どうせならいちどくらい己を貫徹してみやがれ。と、そういう観点からいっても、この小説を支持したくなるのである。
また、これは彼女の作品についてはいつもながらの事なので、あまり長く書かないが、ひたむきな主人公を描かれる一方、それに親身に応える女性が存在することが多く、今作も例外ではない。そしてその関係のなかでみられる、すこし暖かくもすがすがしさのある距離感には、村田が理想的な状態とするような徹底された近代的な個と個のありかたが反映されているのかもしれない。また他の小説家の作品でこういう独特の距離感が感じられないのも、同じ理由かもしれない。
さいごになるが、主人公がカーテンと「自慰」する描写に、なんともいえない情感が漂っていてその場の空気に触れられるかのようだった。