『アトム』高橋源一郎

多分ものすごい恥ずかしいことだと思うんだけど、このブログではもう殆ど恥はかき捨てているので書いてしまうと、この続編ともいえる作品を読んではじめて、前作も原発が隠れテーマじゃないの、と気づいたとです。「アトム」といわれても「ロボットアニメ」「手塚」くらいで、「原子力」とか「科学」と結びつかないのであります。しかしこんなの自分の世代のせいにはできないよなあ。
でなんで今回気づいたかというと、まるで世界が逆回りするように、いままで物事を覚えていくことが学ぶということだったのに、こんどは物事を順番にひとつづつ忘れていくことが学ぶということだというふうな状況が描かれていて、このある瞬間からの「ズレ」って、あの群像で書いていた今回の地震を「時震」と書いていたことと関連している?と思い始めたから。
でもこの価値観の真逆への転換の、そのあまりの残酷さを読みながら感じたのは、むしろ、「東電」や「原発」がある日ある瞬間から、まったくの悪者になってしまったという残酷さなんだよね。だって、なんてったって地球温暖化への切り札だったんだから(世界的には今もそう)。
「いま電力の約3分の1は、原子力で作られています」という電気事業連合会かなんかのCMをのほほんと受け入れていた世界から、福島のガレキを川崎市が引き受けたり東北の松を燃やそうとしたり福島の物産展を行う程度で抗議が殺到するような世界へ。一瞬のうちに。
たぶん多くの人が引き合いにだすのだろうけれど、これって、軍国主義から戦後民主主義への転換にも近いものがあるのかなあ。軍人がエリート中のエリート憧れの職業だった世界から、たんなる人殺しと見られ口を噤まざるをえない世界へ、という。
たぶんこんな感じ方なんて作者の意図とはまるきりずれているのだろう。そのうえで、もうひとつこれは小説とはより関係ないかもしれないが、この小説を読みながら、「悪」なんてほんとうにあったのだろうか、ということを同時並行的にずっと考えていた。
もとより国民を害そうなんて気持ちが電力会社にも経済産業省にもあるはずがないからだ。しかしもしかしたら一点、相手がゴリゴリの反原発である場合は、彼らも悪意をなそうと感ずるときがあるのではないか。悪意が対立を生むのではなく、対立が悪意を生むのではないか、と。
そういうのが、ひいては国会へ提出するような資料まで墨で塗りつぶすような秘密主義を助長した?
となると、やたらと反原発であるのは逆効果だという話になりかねないけど、今の時点では、じつは全く逆に考えている。むしろ対立するならするで徹底したほうがよくなかったか、と。
いぜんどっかの女子高生だか中学生が、駐車場を作る分クルマも増えるとかいって、電力行政を批判してそれが評判になったとき、バカいえ、駐車場作れば際限なくクルマが増えるわけじゃないだろう、誰が原発作ったから電力を消費しなくちゃなんて月2万も3万も払うかってんだ、とやや憤慨した覚えがある。そうやって自らの手を汚さないような思考のありかたが、福島に原発を押し付けることに繋がったんじゃないのかよ、と。
今から思えば大人気ないとやや反省気味だが、やはり、原発作るといったときにもっともっと反対して、で、石油ショックみたいなことがあったりして、それでも原子力を拒否して、ギリギリのところでやっぱこれじゃやっていけない原発必要かもしれないと国民がみずから判断迫られるようなところまで、電力会社は悪を発揮して国民を追い詰め、国民も逆に追い詰めということをやっておくべきではなかったか、と。そんなふうに思うのだ。自ら選択するなら無関心ではいられないだろうし、それでも無関心ならあるていど責任も問えるだろう。
政府のパターナリズムが他の面ではあまりにうまくいきすぎていたのかもしれないなあ。