『新潮』 2011.8 読切作品

ことしは節電の夏とかいって、周りの会話でうちは20%節電したとかちょっと自慢げにいう人がいたりしますが、これ、割合じゃなくて家族一人当たりの絶対値じゃないとおかしな話ですよね。だって前の年にジャブジャブ使っていたらその分ちょっとした節電で随分減るわけで。
と防御線を張ったところで白状しますと、10%も達成できてません。7%です。暑いのだけは苦手なんです。冬は暖房使わないので許してください。


また書かなくても良いこと書いてしまうのかもしれませんが、東京電力が国会の委員会に提出した事故手順資料の大部分が墨塗りで提出されたというニュースがあって、で、東電がいうには「核物質防護上提出できない」とか言い訳したんですけど、まさしくこれが先日中沢論文のところで書いたところで、すごく疑問なんですよね。
たしかに企業の社会的責任ということは近年ずっと強調されていることだけれど、このパターナリズムはなんなんだろう、と。いち民間企業にそこまで命運託しているつもりはないんだけれどなあ、という。
いや命運はべつに握ったつもりになってもいいかもしれないけれど、少なくとも原発みたいな設備に関してのこういう情報は同時に国が知っておかなきゃまずいですよね。東電には周辺住民を直接動かす権限もないんだから。シビルを動かせるのはシビルの代表である政府だけで、その政府が、東電がどのように事故に対処するのか後から知るということなんでしょうか。分かりません。


(※最近ほとんど読み返すことなくこれ書いていて、あとで気になって見てみたらシビルというのは名詞でないようです。「シビリアンコントロール」という事が頭にあってこんな書き方してしまいました。)