『日本の大転換(上)』中沢新一

上下あるうち上だけ読んで評価を下すのはアンフェアかもしれないが、下編を読む気がしないので今記しておく。
恐らく下編でも原発反対の論陣を張るんだろうが、説得力云々のまえにここまで壮大な話をしなければならないのか、という思いしかない。やや唖然である。
ちなみに私がいままで一番反原発で説得力があった話は、教育テレビのETV特集で報道された原子力政策に関わってきたひとの思いである。どこかというと、放射性廃棄物やテロなどとの関連で、原子力発電所の内部的なことに関しては、どうしても秘密主義にならざるを得ない、というところに反対への一番の理路を感じたのである。つまりどの程度安全性が担保されているか、検査がどの程度厳格になされているかに関して、情報がどうしても一部の者に制限される、と。これはよほど政府やその関連機関に信頼をもてない限り原子力なんてやっていけないなあ、と思ったのである。
それをいったら、軍隊や治安機関のことだってたしかに、一般市民には情報が制限されているんだけれど、原発よりも目に見えて危険な分、シビリアンコントロールなど議論もよりされてきたことは確かで、それに比べて原発は、一民間企業がどこまで判断できて、政治がどこまで指示できてというのが、まだまだ未熟なのではないか。このへんは先日フクシマでのベント問題でも如実に出ていて、自民党のクソ奴らは菅直人が視察で遅らせたとか訳の分からぬことをいっていたが、どうも東電が勝手に周辺住民を慮って遅らせた疑いもややあって、海江田の記者会見でもベントをやるやらないは一義的には東電の判断とか言っていて、これじゃあどうしようもないなあ、という感じなのだ。(ベントの遅れの一番の原因は技術的なものらしいが。)
アメリカやフランスのように原子力を推進しようという国はやはり、政府が我々の代表であるという意識が強い文化的伝統があり、信頼関係もそこそこあるのかもしれないが、日本で今、官僚とか政府という言葉と信頼という言葉ほど結び付けにくくなっている言葉はなく、そんな状況で原発を運営していくのは、結局誰もが責任を取らないようなカタチで事態を悪化させる可能性が高いと思うのだ。