『舞城小説粉吹雪』舞城王太郎

超有名な作家であるが、きちんと読むのは初めて。そんな奴がこんなブログをやっていていいのだろうか、という疑問は至極当然という気もする。(だから勝手ながら、悪評のときなどあまり気にしないで欲しいんだけれど。)
とりあえず、『すばる』を除く買った新年号3誌のなかで、いちばん心動かされた作品である。ただどこが?と言われると困惑してしまう。文章も平易だし、難しい単語が使われているわけでもない。中学生でも高学年なら読めるかもしれない。それに、例えば、人の気持ちが雲になるというモチーフも単純といえば単純。ただ、それも、こういう平易な文章で表現されると違和感がなく、かような単純な感情を平易に描くというのが逆に新鮮で、心を動かされた部分はあるかもしれない。
ひとつ確実に私をキャッチしてしまったのは、「愛するとは愛されたいと願うこと」の気持ちがすごくバランスよく描かれているところ。愛されるという事が、夢のなかで、しかも現実に想いを寄せる女性ではなく、架空の人物によって実現する。全く別の架空の人物によって実現されるというのそのストレートでないところが、ああ分かってるなあそうなんだよ舞城氏という感じだし、その、夢でも嬉しくなってしまう幸福感と、夢の中ゆえの物悲しさが同居する微妙な感情が、思わず自分のなかで再現されてしまった。恋愛感情を表現したもので、ここまで心に迫られるような事は滅多にない。

『新売春組織「割れ目」』中原昌也

群像2月号の鼎談で中原昌也の文芸誌制覇した4作品がまとめて言及されていたのだが、読めたとか読めないとか文章が上手いとか変だとかそんな第一印象的な話に終始していて、非常に物足りない。基本的に評者が皆投げ出してしまったような感じなのだ。ただ、もしかしたらそういう反応の方が正しいのかもしれない。こういう作品を積極的に楽しめるというのも、ある意味ヘンだろう。
売春組織で「割れ目」というと誰もがアレを連想するのだが、直接出てくるのはなんとアスファルトのヒビという意味の割れ目。それにそって歩くと目標の場所にたどり着けるとかかなり適当なことを書いている。また、「かわいい部隊」だとかこういう固有名詞の付け具合(ニートピアというのも前にあった)が、なんとも下らない感じで思いっきり投げやりな感じが漂う。
これは"書きたくない王"の中原昌也が書いているという先入観がそう思わせるのだろうか。そういう部分がないともいえない。中原作品のどういう所が、この無力感=何をしてもどうにもならない感じを出すのに役立っているのか、それが私には今一つかめないからだ。
で、今思ったのだが、いくら投げやりっぽいとはいえ相当計算された上でのことで、ただテキトーに書くだけではまずこうはならないだろう、というのは当たり前として、そういう計算臭さをいかにオモテに出さないようにできるかというのが、もしかしたら肝心なのかもしれない。壊れるというのは、計算どおりに壊れるということではあり得ないのだから。

『記憶の告白』平野啓一郎

以前読んだ短編にしてもそうだけど、こういう平野作品の面白さは今一理解できない。言葉の一つ一つ、文章の隅々まで計算されていて、カッチリとしていて、氏が好きなマイルスの演奏のように隙の無さは感じるのだが。

『アンジュール』樋口直哉

小さい頃食パンを良く食べる犬がいて、その犬が死んで埋めたとき近くの川に食パンを流して供養した、そんな回想を含む話なのだが、不思議と心にひっかかってこない。パンの作り方を教える男性も、食パン犬を買っていた気丈な女性も、女性の父親だった男も、登場人物の誰もが印象として薄い。パンの作り方を教える男の感情の動きも共感に乏しい感じだし。何も残らなかった小説。

『天使の輪』朝比奈あすか

はじめて妊娠した女性が、昔学生だった頃にいじめて辞職させたそのとき妊娠していた女教師のその後に執心してしまう話。中学生の悪口ごときで辞めてしまうようなウブな教師などいるかとか思ったりするが、今の教師なんていろんな人がいるみたいで、無い話でもないだろう。ただ、昔のそんな事をずっと覚えているような内省的なタイプの人間が、いくら善悪の区別が付かぬ年頃とはいえ、そもそもそんな悪意を発露するだろうかという所は、正直どうなんだろうと思ってしまう。実感として掴みづらい。昔の私−今の私のその間がうまく繋がらなくて、その間にどういう事があったか、それとも無かったのか、その部分も書ければもっといいのに、と思う。ただ、樋口直哉の小説とは違い、印象に残る小説ではあって、その分この先を読んでみたくなってしまった。共感させ、小説に入り込ませる力は持っているということだ。

創作合評の田中弥生の川上作品評

田中弥生さんは頭の切れる人で、ネタばらしが得意技で、それだけでなくきちんと文学の知識も豊富な人なのだ、というイメージを残して彼女の当番は終わってしまったのだが、最後のこの川上未映子評はさすがになんなんだろうコレ、というものだった。
一葉へのオマージュというのはいいとして、じつは、主人公の脳内世界の出来事ではないか、みたいな事を言う。え?またですか、という。
いや、それもそれでいいとしよう。で、これが脳内世界だからなんなの?なのだ。脳内世界であるのとないのとで、作品解釈の上で何がどう違ってくるのか、というのが皆目分からない。小説というのが、読者と作者がシカケの解き合いをして楽しむ場だというのならば分かるのだが、テレビゲームの裏技探しじゃあるまいし。一葉の話も広がりなし。
挙句、面白いけど支持できないみたいな事を言い出す。女性を非理性の側でよしとしている、らしい。
私は全く逆に思ったのだが。ネタばらし云々より遥かに肝心な、作品のテーマの解釈の部分が全く納得できない。それなら、途中の「言葉が足りない」という叫びや、ノートを長いこと読むというのは、一体なんなのか。言葉=理性と考えれば、理性に負けた昔を今度は理性でなんとかしたいという試みこそがこの小説のテーマだと思うし、だからこそ豊胸手術前に昔の夫に会いに行ってるのだし、飲んで帰ったというのはまた負けたことを必ずしも意味していないし、すくなくとも非理性で対抗(豊胸)する部分はとりあえず止めたのがラストではないのか、と思うのだが。