『新売春組織「割れ目」』中原昌也

群像2月号の鼎談で中原昌也の文芸誌制覇した4作品がまとめて言及されていたのだが、読めたとか読めないとか文章が上手いとか変だとかそんな第一印象的な話に終始していて、非常に物足りない。基本的に評者が皆投げ出してしまったような感じなのだ。ただ、もしかしたらそういう反応の方が正しいのかもしれない。こういう作品を積極的に楽しめるというのも、ある意味ヘンだろう。
売春組織で「割れ目」というと誰もがアレを連想するのだが、直接出てくるのはなんとアスファルトのヒビという意味の割れ目。それにそって歩くと目標の場所にたどり着けるとかかなり適当なことを書いている。また、「かわいい部隊」だとかこういう固有名詞の付け具合(ニートピアというのも前にあった)が、なんとも下らない感じで思いっきり投げやりな感じが漂う。
これは"書きたくない王"の中原昌也が書いているという先入観がそう思わせるのだろうか。そういう部分がないともいえない。中原作品のどういう所が、この無力感=何をしてもどうにもならない感じを出すのに役立っているのか、それが私には今一つかめないからだ。
で、今思ったのだが、いくら投げやりっぽいとはいえ相当計算された上でのことで、ただテキトーに書くだけではまずこうはならないだろう、というのは当たり前として、そういう計算臭さをいかにオモテに出さないようにできるかというのが、もしかしたら肝心なのかもしれない。壊れるというのは、計算どおりに壊れるということではあり得ないのだから。