『文學界』 2010.12 新人賞ほか読切作品

文學界』の12月号について書くにあたって、なんといっても12月号ですから、2010年という年を振り返ってみようかと。まあ2月に入って正月気分も消え、誰もが2010年の話題なんて、と思ってるでしょうから。


職場で朝日新聞が読めるようになったのですが、最近は生き残り賭けているというか、なかなか興味深い特集記事なんかあったりして、作りが大分工夫されている感じです。学生時代に読んでいた頃より面白くなってるんじゃないの、新聞て結構読み応えあるじゃん、という認識になりつつあります。(でも自分の金で買うかといったらアレですが。)
その朝日新聞が暮れになって始めた連載企画である「孤族の国」、これが連載されたことが2010年私にとって、最も印象的な出来事だったかもしれません。NHKスペシャルの無縁社会も私は毎回みちゃったりしてるのですが、この連載企画でもなんとも興味深い生き様が紹介されます。軽自動車で死体で見つかった独身男性とか。せっかく自治体がその死体の身元を判明させ身内の人を探し出しても、「もう縁が切れてますから」とか「骨を取りに行く金が無いので」と言われてしまうという。
しかしこれだけ近代的な社会制度が整備された時代になって尚、餓死というものが存在するというのが興味深いですね。人間社会が歴史上今まで生じさせてきた飢餓とか餓死とかといったものとは、それらは全く異なるもののような気がします。


ところで連載後暫くしたら、菅直人が孤族問題に関して特命チームを作るだのなんだのそういうニュースも新聞に載っていて、多分あの連載記事を読んだんでしょうね。そういう気持ちになるのは分かる部分もあるんですが、一方で思うのは、菅て人はやはり単純というか鈍いなあ、と。そんな簡単じゃないでしょうに。
だってよくよく考えたらこれ、近代の宿命というか必然的結果ではないかと。
たとえば私の身の回りにも、私より遥かに金があり容姿もそれほど悪くないのに、けっして女性と付き合おうとしない人が結構いたりしたのですが、彼らには自分の老後の事なんか何も考えてない感じの言動が見られるものの、女性と付き合おうとしない、あるいは家族というものを持とうとしないのが自分の面倒くささが原因である事は自覚していて、ろくな死に方しなくても面倒臭がりゆえの自業自得であることはある程度覚悟しているようでもあるんですよね。
こういう所から覆さないと孤族なんて減りはしませんし、孤族でいられるというのは、ある意味自然に対する社会の勝利ですからね。大昔とちがって、ひとりで生きていけるってのは、これはすごい事です。ある程度の年齢までは、と留保がつくものの。


それ考えると、上野千鶴子さんは紙上できちんと自業自得と喝破していて正しいなあと思いましたが、一方でやはり社会学というかそういう所の人であって文学の人ではないんだんなあ、と思いました。だって泣き言を言う人は自業自得だなんてこと分かっているんですから。それでもやはり人を前にすると、その声が聞きたくなったり、泣き言を言いたくなったりするってことであって。分かってることを殊更今更言うのは大人気ない。
つまりは、やっぱ家族が大事みたいな、さいきんの朝日新聞にすら漂ったりする保守主義を忌避するのは分かるんだけど、パブリックに泣き言が否定される分、どこかに肯定される場が必要なのではないか、と。で。
そこで出てくるのが、マイナーがマイナーのままマジョリティの一員となる機能を提供しうる文学ではないか、と我田引水。

『ゴルディータは食べて、寝て、働くだけ』吉井麿弥

レシートの内容などが挿入されていたりして、いっけん奇をてらった小説かのようだが、きびきびとした運びで物事は語られ、読者は難なくそれについていく事ができる。これだけでも相当の能力がないとできない事で、新人賞には間違いなく値すると思う。この人は次回作が間違いなくある人ではないか。
また、途中物語の筋とはそれほど関係のないところで出てくる客(性風俗の)の変わったエピソードなども、そこそこ面白く、それを言うなら、音楽スタジオで出くわす他人の演奏(曲)のわけの分からなさなんかは、これははっきり面白い。
また、配された人物も、ちょっとステロタイプ臭はあるものの、それぞれが人物としてきちんと立っている感じはある。ではなぜこの評価なのかというと、結局食って太って終わりみたいな内容の乏しさがちょっと物足りなかったか。とくにその核になる、ある特異な客のその態様がきちんと消化されているようには思えなかった。中途半端な謎っぽさがどうにもわざとらしいというか。
一方でカメレオンゲートという物理現象的な謎に関しては賛否あったようだが、これに関しては私は受け入れることができた。一部の地域がなんの理由も無くなくなってしまう、と。人々がそれをパニックではなく運命として受け入れる様などは、作者として本意かどうかは分からないが、今の社会の様々なものの象徴として感じることが出来る。例えて言うなら、会社が傾いたり、親が認知になったりするというできごとなどは、間違いなく運命的に我々を陥れる、落ちたら終わりの穴のようなものとして、在る。いつどこにそれが起きるのか分からない。そして在ることが分かっていながら、それが自分の身には訪れないと、どこかで人々は思おうとしている。もっと言うなら例えば、テロ事件などもこういう様相を帯びているだろう。間違いなくどこかでおきていて、我々を暗い影で覆っているのに、出くわすことはまず無いだろうと考えている。この小説に出てくる人々も、影を感じながらも、どこか他人事のようにカメレオンゲートを扱う。
そのようななかで生きるという事はどういう事か。希望など持ちうるのか。主人公はたんに食べて、寝て、という動物的な事だけでなく二次的なことが人間を生かしているのではないか、と考える。主人公にとってバンド活動がそれだったのだが、もちろん、通俗的なマンガみたいにバンド活動などが呑気に肯定されることはない。活動はあえなく瓦解する。二次的なものだって、もはや奪われつつあるのではないか我々は、といったところなのだろう。こういう所、しつこいが、作者としてこう言われるのは本意ではないかもしれないが、今を生ききちんと感じ取れる人の小説であることは確かと思える。

『かげ踏みあそび』藤野可織

え、リアリズム?と思っていたら、序章が長かっただけでした。しかし、この人は力あるなあ。
物語は主人公の親が再婚して義姉と一緒に暮らすことになる所から本格的に動くのだが、つまりは、いきなり異物と暮らすことになるわけであって、通俗的なマンガなどと違って、たとえ異性だろうとそんな好意的になったりはする筈もない。
でその異物感が、体内にビーズのようなものが、という非リアリズムにつながるのだが、この作家の書く非リアリズムはその現象そのものが、昔の作品よりも格段に広がりがあって、面白く読めるものになってきてるように思うのですわ。だって前は怪獣みたいなもの書いてなかったっけ?あの頃はちょっと強引に過ぎたように思う。
それに比べて今回はラストまで、その現象から付随して起こりそうなことできちんと引っ張っていて、読んで素直に感心する。
また、基調には、新しい家族関係のよそよそしい過剰な思いやり、親切さみたいなものがきっちり書き込まれていて、その点でも作者の目の確かさを感じさせる。
これで、血のつながりの無さにおける何らかの邂逅、なにかコミュニケーションの新しい形らしきものを描くところまでは至っていたりすると、さらに評価はすごいとなったりするのだが、むろん全ての小説がそうあるべきな筈もなく、これはこれでひとつの作品として完結していて文句はつけられない。

『ノミの横ばい』戌井昭人

しかしよくこのスカスカの内容でこれだけのページ数を埋めたなあ、という感じ。読んでも見事に何も感じない。読んでその日のうちに内容を忘れ、今ここに何かを書くためにページをぺらぺらやっても何も蘇ってこない。しいて言えば、バイトの分際で店を食材を勝手に持ち出したところは思い出したが、その主人公に嫌悪感すらも感じなかった筈だ。いったい何を書こうとしたんだろうか?
以前の作品には、何かしら知られざる風俗とか光景みたいなものが描かれていたりするものもあって情報として捉えれば面白いものもあったけど、それが無くなれば何もない。
これが中原昌也であれば、何も無さはもっと徹底されているだろうし、その徹底には暗い情熱というか怒りがあって、小説を書かせる核みたいなものを感じさせるけど、この作品の空虚には何か余裕すらあって、べつに書くことがないのなら貴方の場合は書かなければいいのではと言ってみたくなる。

『裸婦ペロリ』鶴川健吉

暴力とはどういう関係によって生じるかとか、その関係によってしかつながることのできない人物を丁寧に描いた作品。
主人は対等なコミュニケーションの場というか、穏当なコミュニケーションの場では、著しく能力を欠く。すぐに失業してしまう。つまりはコミュニケーションの本質について敏感だからだろう。穏当な場というのは、本質としての権力関係が隠蔽されているに過ぎないだろうから。それに馴染めない、あるいは許しがたいのだろう。
そしてまた、コミュニケーションの場では、「どうにもならなさ」がついてまわるものだ。他者が自分にどう振舞うか分からない。また自分すら、どう振舞うか分からない。この小説では、暴力を振るわれつつも笑いたくもないのに笑ってしまう主人公がいて、その感覚はよく分かる。
人は、すべてが了解された穏当な場よりも、そういう「どうにもならなさ」を求めてしまうのではないか。
むろん一方で、暴力・非暴力のあいだには、断絶といっても良い相当の距離があるのも確かで、私たちはどうにもならなさを求める余り暴力をわが身に受けることまで引き換えにはしない。この安全な社会が正しいのも確かだ。だがしかし・・・・・・。
という事を感想として書かせるだけあって、この作家の人への感覚、観察力は確かなものがあるように思う。でなぜこの評価かというと、なぜ裸婦なのか、ということだ。エロを登場させることが約束事のようになってはいないだろうか。約束事のように女性の裸を登場させることで、「どうにもならなさ」からも遠くなってしまっては元も子もない。