『裸婦ペロリ』鶴川健吉

暴力とはどういう関係によって生じるかとか、その関係によってしかつながることのできない人物を丁寧に描いた作品。
主人は対等なコミュニケーションの場というか、穏当なコミュニケーションの場では、著しく能力を欠く。すぐに失業してしまう。つまりはコミュニケーションの本質について敏感だからだろう。穏当な場というのは、本質としての権力関係が隠蔽されているに過ぎないだろうから。それに馴染めない、あるいは許しがたいのだろう。
そしてまた、コミュニケーションの場では、「どうにもならなさ」がついてまわるものだ。他者が自分にどう振舞うか分からない。また自分すら、どう振舞うか分からない。この小説では、暴力を振るわれつつも笑いたくもないのに笑ってしまう主人公がいて、その感覚はよく分かる。
人は、すべてが了解された穏当な場よりも、そういう「どうにもならなさ」を求めてしまうのではないか。
むろん一方で、暴力・非暴力のあいだには、断絶といっても良い相当の距離があるのも確かで、私たちはどうにもならなさを求める余り暴力をわが身に受けることまで引き換えにはしない。この安全な社会が正しいのも確かだ。だがしかし・・・・・・。
という事を感想として書かせるだけあって、この作家の人への感覚、観察力は確かなものがあるように思う。でなぜこの評価かというと、なぜ裸婦なのか、ということだ。エロを登場させることが約束事のようになってはいないだろうか。約束事のように女性の裸を登場させることで、「どうにもならなさ」からも遠くなってしまっては元も子もない。