『群像』 2010.11 読切作品ほか

月内にもう一回書こうと思っていたのですが、わずかばかりの暇を家の中の掃除やら整理整頓やらに費やし年を越してしまいました。
ま、そんなふうに忙しさを理由にしたりしてますが、ここに書く気が低下しているのも確かです。以前などは年末になると一年を振り返り、今年の最優秀新人作家とか、"文学は面白いのか"大賞とか選出してましたからね。(嘘です。)


もともと一年を振り返ったり、新年にあたって何かを改めたり、はしない方で、そういう気分にならないものだから、今年の10大ニュースであるとか正月特番的テレビ番組を見ないのは無論、年賀状を書いたりとか初詣に行ったりするという事もしません。雑煮も食わないし駒も回しません。
そもそも初詣というのは仏教的なものなのか、それとも神道的風習なのかも分かりません。ろくに信仰もしてねえのによくそういう所行けるな、と日本人の宗教スタンスを今さら批判しても仕方ないのですけど、鳩山邦夫とかいう奴が、死刑の執行命令を下すにあたって斎戒沐浴だの先祖のお参りをしただの言ってるのを見たときにはずっこけました。(ってさっそく前言を翻して年末のテレビ番組の話なんですが、まあ一人暮らしではないので。)
そういう信仰と死刑執行が両立するような人間も世の中にはいるんだなあ、と。更にはこの鳩山とかいう人は、反省しない奴はいくらムショにおいても反省しないみたいな事も言っていたようなんですが、宗教といえば、悪人正機に代表されるように、世の中の価値観をひっくり返す逆説的なところに存在意義があるとばかり思っていましたから、ちょっと驚きでした。
しかし浅いのは私の方かもしれません。冷静に考えれば、「斎戒沐浴」っていうことは鳩山氏はあまり仏教とは関係ない人なのかもしれませんし。しかし繰り返しになりますが、こんな人物の意見に賛同するような人がこの国に多いとすれば、浄土真宗がいくら勢力を誇ったところで親鸞その人の考えは殆ど影響ないって事ですから、なんかやっぱおかしいよこの国の人は、親鸞がもし現世に生きていたら仰天じゃないの、と言ってみたくなるのです。だって悪い事をした事がない人は、反省などしようが無いのです。


宗教は逆説と書いて思い出しましたが、むかし「神様を信じる強さ」と小沢健二が書いたときにはしびれました。弱い人こそが宗教にすがるという世間一般の皮相的見方の逆ですからね。いま何しているんですかね。

『燃える家』田中慎弥

なんでも大型新連載らしい。前半はいかにもこれまでの田中慎弥らしい、少年と父親との思わせぶりな関係の話で一通り退屈させられたが、後半では女教師だの、湾岸戦争について語る保守政治家だのが出てきて、あまりらしくない。楽しみとまでは行かないが、どう話が転がっていくのか、広げた風呂敷をどう畳むのか、さっぱり予想がつかない。
しかしこの作家は、昨今の日本の文学者にありがちな、私小説的な世界から敢えて出ない、開き直り的なというか、物語拒否なやりかたと違って、全く実際の田中慎弥という人物から流出したとは思えないような人物も、想像力をもって構築しようとしていて、その点は古き良き文学という感じがしないでもない。私自身、古き良き文学なんて殆ど知らんのだが、例えば、太宰とかがしばしば女性を主人公に据えたりしたようなのを思い出させる。

『陽だまり幻想曲』楊逸

古き良き文学といえば、まさにこれもそう。たんに主人公が妄想しすぎてしまいましたというオチ、つまりは孤独が内面を肥大化させてしまう様を描き、その想像世界の描き方や出来栄えで勝負するような、いかにも「純」文学的なものではなく、隣で虐待が行われたというふうにきっちりお話を作る。主婦が誰かに語って聞かせるかのようなその語り口がきれいに統一されていて上手さすら感じたがゆえに、普通と評価してみたが、面白さを感じる点は殆どない。
それにしても専業主婦がさしたる困窮もないのに思いつきのようにパートを始め、またその仕事がたんなる電話番的な楽なもので、というのは、まあそういう事もこの世界には充分ある事なのだろうけど、ちょっと入り込めない。何でもかんでも文学は辛さを描けというのではないが。また、最初の舞台設定ということでいえば、こんな楽な仕事を簡単にゲットできたのなら、そのために引越しまでして拘泥するものだろうか、と思ってしまう。職場に近い所への引越しが物語の端緒なんだけど、あっさり獲得できた仕事なんか、子育てと両立するのが難しかったらあっさり手放してもおかしくないのではないか。語り口の滑らかさにくらべ、物語のとっかかりがどうにもぎこちない。

『きんぴら』広小路尚祈

うーむ。この人は以前はもっと小技というか、面白みのある文章を書いてくれる人だったのだけど、前作辺りから、うだうだとした一見下らない内省はそのままに、語りの面白さが減じているような気がする。
ちょっと妻に内緒な悪い事をしてしまったがゆえに今度は良い人間になろうとして、最初は善行をしようとして失敗し、今度は悪行を行ってこれまた失敗するのだが、そのじぶん理論の整合性にとまどってしまう。恐らくは、善行をなそうとしていた人間が一転悪行をなそうとする所が面白みなんだろうけど、そのとまどいが先走り、あまり面白くない。具体的に失敗するエピソード、さびれた飲食店に入って不味いメシを食うとか、ギャンブルで儲かってないオヤジの逆やって失敗するとか、もそれ自体の面白さを狙ってるのかしらないが正直面白くない。
最後にはうまいきんぴらが灰汁を有しているが如く、自分の家族のために利己的にちょっと悪く生きていこうとするのだが、説得力がない。説得力というのは読んだ人間もそうしよう思うという意味ではなくて(それを言うならこの主人公には反感しか覚えないのだが)、一人の人間がそこへ至った事が分かるか分からないかという所なのだが・・・・・・。なんで家族がそんなにまでして重要なの?という。

『世界同時革命−その可能性の中心』柄谷鼎談

柄谷が阪神タイガースのことしか話さない、とかそういう部分だけ楽しく読めたけど、どうにも内通者どうしの鼎談という気がしてスリリングなものがない。「贈与とか格好よいこというけど、日本に対して武力放棄した旧朝鮮王朝はどうなったんですか、世界は救ってくれなかったじゃないですか」「いや今は国際連盟の頃とはパラダイムが違うから」とか、右翼的な自称リアリズムな人とそういう対話でもすればいいのに。センカク問題で軍備増強とかいうバカが大量に生じてる昨今だから、相手も簡単に引き下がらず面白いだろう。柄谷は自分がバカと思う人とそういう事をしなさそうなイメージが強いが、バカこそ他者なんじゃないの、と。

『「生」の日ばかり』秋山駿

あくまで連載を除けばだけれど、この号の群像でいちばん面白かったのはここ。(あ、これも連載か。)たしかに私もあの芥川賞受賞作の良さが理解できなかったひとりではあるけど、秋山がここまで読めていないとは驚く。たとえば、なぜ「気のせいか・・・・・・。」という一文が必要なのか、と秋山は躓くが、これはたんに教授の内省を簡潔に挿入しただけで、「別のことを学生達がしてるのではと教授は感じ振り向くが、彼女達に悠然と微笑み返されて、その疑問は気のせいかと思った」、それだけのことではないか。
しかし、いっけん躓くところではないと思えるこういう所もまたこの小説の特徴なのかもしれない。こういうところに違和感を持たずに読んで面白くないと判断した私も問題で、秋山が感じたようなこの違和感が反転して面白さと感じ取れる人こそが、あの小説の正当な評価者なんだろう。小川洋子との対談で、赤染という人がややどうでも良い人になりつつあるから、別にいいんだけどね。