『西暦二〇一一』松波太郎

徐福伝説が出てくるのだが、はてどこか別の作品でも言及していなかったか?
ともあれ著者はよほどこの伝説に何か感じるところがあるのだろうが、とくだん現代と重ね合わせる意義については今一つ掴めない。だが、もしかしたら、徐福伝説を過去の出来事としてとらえて現代に重ねるという事がそもそも違うのかもしれない。この作家は作品の中で場所や時間をスパスパ切り替えて描写する特色があるのだが、スイッチを切り替えるようにあっさり切り替えるその無造作で自在なやり方にこそ、作者の意図があるのではないか。この、直線的な時間とそこにしかない肉体、「いまここ」に縛られた近代的なあり方に抵抗するという。
保坂和志が群像の連載やほかの作品で、過去はほんとうに確定したものなのか今からでも我々が思うことによって変わるのではないかとかそんなふうに色々「いまここ」に抵抗を試みているのだが、そのもうひとつの実践がもしかしたらこの作家によってなされているのではないか、とか考えたのだが、さてどうなんだろう。たとえば孔子が理想について語る時など、過去の理想の君主がいまもそこにいるかのような、われわれとは違う時間の観念を持っているように感じるのだが、それはそれでひとつのあり方として間違っているとも言いきれず・・・・・・。いまもそこに徐福がいるかのような感覚をもし我々が持つのだとしたら・・・・・・。
松波太郎という現代日本文学の特異点は、これまである種天然の、ナチュナルな持ち味が主成分と思ってきたが、じつはその多くは緻密で意識的な構築だったりして。

『曖昧な風が吹いてくる』馳平啓樹

他の作家のところでは余剰過剰が欲しいとかいっておきながら、こういう保守的で進歩のないソツのない作品に好意を抱いてしまうのだから、小説の肝所というのはなかなか一般化というか人には説明しにくいのです。
というわけで早くもこの作品の魅力を書くにあたって言い訳してるけど、やはりこの作家の作品は嫌いになれない。この小説に出てくるような不安定な身分の労働者が中古の軽自動車に乗ることに喜びを見出すことに関して、明るい肯定さをもって描写しているのは下手すれば現状の階層化社会の追随、受け入れにもとれて、下手すれば危険で、他の小説家であればあまりこういう扱い方はしないのだが、その主人公が軽自動車と出会う、運命的ともいえる馴れ初めから手に入れるまでのいきさつの描写があまりに鮮やかで、肯定だろうが否定だろうが生きていくにあたってのこれが実存なんだよ、とつい援護したくなってしまう。上手すぎて危険という・・・・・・。
もうひとつついでにこの作品の良い点あげておくと、デビュー作に見られた、リアリズム作品なのにいまひとつリアルでない会社内部の実情のところが今作ではわりとクリアされているのではないか。じっさいにどれだけ実社会の経験が作者にあるのか定かではないが、何もないところからもし想像力と様々な資料や取材を駆使してここまでのリアルさを構築できたとするならそれはすごいと言わざるを得ない。一次下請けが全くマシと思える二次三次の下請けの現状がよく出ていると思う。この作家としての力があるなら現代の若者世界という題材から離れても一定のものを書いてしまえそうだ。
そしてこれは、また別な意味での他の作家との比較になるが、同工異曲というか似たような内容の作品を書いてそれらが優れていても二作目からすでに飽きの気配が漂ってしまう人にくらべ、この作家が現代若者を主人公にした作品を短期間に連続して発表しつつ決して飽きさせる事がないのはなぜか。そこにどんな秘密があるのだろうか。小説をモノにする気は微塵もないのでこれ以上探る気もしないのだが、不思議なことである。

『仲良くしようか』綿矢りさ

心情をあからさまに吐露した私小説的な内容のヒリヒリした小説で、『勝手にふるえてろ』あたりから難しげで高尚にみえる言い回しには背を向け開き直ったようになってから『ひらいて』でまさしく全開に開いてしまった綿矢りさが、ふたたび三年前に戻ったかのよう。こういうのを歓迎する向きもあるだろうが、『勝手にふるえてろ』的虚構と同時進行的にこれを書いたのだとすれば、これはリハビリというかセラピーのような本人にとってバランスとるかのようなものなんだろうか。だとするなら、読者相手にストレス解消するなとも言いたくなるが、逆に、こういうものも、作家としての戦略もてらいもなく出してしまえるくらい「ひらいて」しまったのだろう。これはこれでこういう傾向のものも、地味にみちみち続けて書いても試みとして面白いとは思うが、内容は面白くはない。

『ギッちょん』山下澄人

これを読まされたあとで振り返るなら、そりゃ前田司郎の小説に甘くなるというもの。
例によって章だてで、章の名前に工夫がなされているが、その時点でウンザリしますね。はいはいはいはい・・・・・・。こういう工夫が、ぜんぜん小説の動力になっていないのね。こういう工夫をおもしろがれる文「芸」趣味の人には動力になるのだろうから、好きな人は好きと言ってよく、それは理解しますけれども。
時間が前後しつつひとりの人物という作品では、本谷有希子も最近そういうのを書いていたけど、あそこで動力となっていたエピソードの面白さも全くない。ギッちょんなる人物にもとりたてて魅力がない。山下澄人を読む人は、同時にたとえば松波太郎とかちゃんと読んでいるんだろうか。行き当たりばったりにフリーターやっている人間にも宿る倫理性についてあそこまで描き切れる作家にもっとスポットライト当ててください。つか、私も自分の山下評価が世間とあまりに違いすぎるので気になっていわゆる文芸評論家の評価なんかも目を通したりするんだが、「この作家、一見読みにくい風にかんじるかもしれないがそんな事はない」とかいう言い方がしばしばされるのね。・・・・・・。読みなれている人、頭の切れる人はそうでしょう。良かったですね頭良くて。
はっきりいって山下澄人の作品で読みやすいものは一作もありませんでした、私にとっては。評論家はもう少し自分自身を外側から見るように。

『悪い双子』前田司郎

以前だったらこの小説に、オモロない、と迷いなく断じていただろうが、後々述べる理由によりこの評価。よくよく省みるなら所々面白い表現はあるし、自分は失われた双子であるという発想もなかなかの着想といえる。ステンレスの棒云々のオチではなるほどと思わせたりもした。
一方で、幼い目で見た性の描き方があまりに普通にブンガクしているなあという感じでこの人らしくないし、いくら人の記憶が頼りないものだとはいえ(このテーゼは繰り返し語られるのだが)、ここまでブンガク的なあり得ないオチだと少ししらけてしまう。

『夜蜘蛛』田中慎弥

ある小説家が男から長々とした手記をもらい、小説の内容の殆どはその手記の内容なのだが、こういう仕掛けの、「独白延々続きもの」はしばしば見られた、いわばこの作家の得意技とも言えると思うだが、以前はそのあり得なさ感で途中で読めなくなることもあったのに、すんなりと読め、しかも中々の力作と思ってしまうこの差は何なんだ。私が変わったのかとんでもなく成長したのか・・・・・・。(むろん後者ではない!)それにしても題名が秀逸と思わせるオチの見事さは一体これはなんだろうと正直思ってしまう。乃木将軍の自決を反復するなどという、田中慎弥らしい突拍子もない発想というか、らしさは残っているのだが。
しかし、だ。相変わらずこの作家が書くのは、父と子の相克なんだよね。やっぱこの主題には個人的にはまったくもって興味がないし、はっきり申し上げてどーでもよく、一般的にみてもアクチュアルとは思えない。そういう所がすっぱりと不思議と切れてしまっているのが、われわれの今のリアルだと思うからだ。
いっぽう戦争の記憶とか天皇といった主題に関してはおおいに興味があるし、日韓、日中がぎくしゃくしている今だからこそというのはあるものの、その実際のところはこの小説とは殆ど関係がないだろうな、というくらいそれは消化されていない。戦争に関するドキュメンタリなどその殆どを見ている人間から言わせてもらうならば。こういう主題にトライする若手作家がすくない現状からは貴重かもしれないが、このレベルでやるなら扱わないほうがマシで、この作家が描いたものと比較するならひとり悶々と妄想する地方の引きこもり青年の生活を描いたもののリアルさにはまったく及んでいない。
結論としていうなら、その読ませる力、作家としての力量に比して、内容に、書くべきことに窮しているのではないか感が現状感じられる。あの戦争に関してもしも今後も書くなら、戦記文学やあるいは実録ものを一年くらいはこもって延々と何冊も何冊も読み下したと感じさせるような内容のものにしてほしいと思う。そして田中氏のような力量の人がそれをやるなら是非トライしたい。