『西暦二〇一一』松波太郎

徐福伝説が出てくるのだが、はてどこか別の作品でも言及していなかったか?
ともあれ著者はよほどこの伝説に何か感じるところがあるのだろうが、とくだん現代と重ね合わせる意義については今一つ掴めない。だが、もしかしたら、徐福伝説を過去の出来事としてとらえて現代に重ねるという事がそもそも違うのかもしれない。この作家は作品の中で場所や時間をスパスパ切り替えて描写する特色があるのだが、スイッチを切り替えるようにあっさり切り替えるその無造作で自在なやり方にこそ、作者の意図があるのではないか。この、直線的な時間とそこにしかない肉体、「いまここ」に縛られた近代的なあり方に抵抗するという。
保坂和志が群像の連載やほかの作品で、過去はほんとうに確定したものなのか今からでも我々が思うことによって変わるのではないかとかそんなふうに色々「いまここ」に抵抗を試みているのだが、そのもうひとつの実践がもしかしたらこの作家によってなされているのではないか、とか考えたのだが、さてどうなんだろう。たとえば孔子が理想について語る時など、過去の理想の君主がいまもそこにいるかのような、われわれとは違う時間の観念を持っているように感じるのだが、それはそれでひとつのあり方として間違っているとも言いきれず・・・・・・。いまもそこに徐福がいるかのような感覚をもし我々が持つのだとしたら・・・・・・。
松波太郎という現代日本文学の特異点は、これまである種天然の、ナチュナルな持ち味が主成分と思ってきたが、じつはその多くは緻密で意識的な構築だったりして。