『ピーナッツ』中山智幸

なんか文學界作品はどれも「普通」か「面白い」ばかりで、こきおろしも大絶賛も少なめだが、実際のところは意図せずそうなっているわけで、ストレス解消したい私も淋しいのであります。(さいきんはもう予めあまりに面白くなさそうなのはトライしていない、というのもある)。
また、予め色眼鏡で読んでいるわけではないよというポーズを示すためにこのブログでの評価変えたりもしていないつもりで、中山氏にも以前厳しい事書いたのに、嫌悪感が少なくなっていてこういう評価になってしまう。読む人を戸惑わせるだけの、昨日今日小説書き始めた人が一所懸命ひねりましたみたいな比喩が前よりだいぶ無くなって、主たる登場人物のひとりよがりな善悪判断も幾分弱まっている。ように思うのだが、それほど実証的なものでもなく、過去の作品を再読までして比較するつもりは微塵もないので、読む私が変わって、中山氏本人は一貫しているのかもしれない。
話がうごくきっかけとして震災云々出てくるが、震災に面と向かって書かれたいくつかの他作品のように、それによって変わった何かがにおい立つこともなく、メインはあくまで家族や社会(仕事など)との葛藤なのだが、それはそれで全くかまわないことだろう。あれほどの出来事でも結局私たちは変わらなかったのだから。出来事としてそれを消費したあとは、ときおり気が向いたときに東京電力や政府を批判するだけなのだから。
でその葛藤の描写についてはとくに不満も覚えず、女姉妹たちや会社の同僚女性にもそれなりの外部性があり、主人公の彼女たちに対する態度が格別ひどいっつうこともない。ただ大きな難もあって、話の中心ともなった主人公が一番大きく関わった謎めいた女性の、その存在の意味がさっぱり伝わってこないところには首を傾げてしまう。白い部屋を黒く塗ってしまう暴力的なオチも(それは中山氏の作品の恒例ともいえる所なんだが)、さきほど嫌悪感少なくなったと書いたが、正直あまり感心しない。
かといって、そういう暴力で発散することさえままならないのが今の我々という弱々しい存在のリアルだからといって、中山氏までそれに染まってしまえとまでは言わない。たとえ優れたものでも皆で同じようなもの書かれてもそれも困る。どっかの男性作家のように「暴力」や「性」をあからさまに描くのが文学だとか勘違いされても困るというはなしだ(話に読者を引きずり込むのが難しいのは分かるにしても)。