『新潮』 2011.1 読切作品ほか

最近近所の猫が私の姿を見ただけで逃げるようになったのですが、放尿被害は相変わらずです。
猫にしてみれば、苛める私のような人がいるすぐ側にエサを与えてくれる人もいるわけで、生きる為には仕方ないんでしょうね。私も正々堂々こういう問題を解決するならば、猫怖がらせるより野良猫に無責任にエサを与える近所のドアホをドツクべきなんでしょう。猫よ、すまんねえ。
しかし、恐らくこういう被害を分かっていないでエサを上げているんでしょうから丁寧に話せば分かってもらえるかもしれませんが、通じなかったときが怖いですね。騒音とかの問題でも一度話しただけでなんとなく近所関係がこじれてしまうという話はいくらでもありますし、しかも相手は無類の猫好き。猫好きというだけで、私の中には分かってもらえんだろうな的偏見がたっぷりです。その怖さの前には尿の被害などなんでもない、という。


小林製薬さん、媚薬と反対の効果のある「ネココナーイ」、出してくれませんか? 売れますぜ。


ところで更新が遅れに遅れているので感興のわかなかった作品はやっつけ仕事的にあまり推敲しません。

『これはペンです』円城塔

群像の鼎談で、残るもの、古典的なものを書くことには興味がないというか、書くつもりはないというか、そんな発言をしていた記憶があるが、そんな著者らしい作品。問題意識が、いかにも今的な、WEB時代の文学とは、みたいなところにある感じで。
つまりは、これはペンです、という題名にそれがよく出ているのだ。ちょっと前に翻訳可能なものしか生き残らないみたいな議論が盛んになされていたけど、「これはペンです」といえば翻訳文の代表も代表だろう。"This is a pen"。これ以上、付け足すものも引くものも何もない完璧な定型文。で、きたるべき文学も、WEB時代になったのだから、流通はそぎ落とされそのような「完璧な一つ」に近づいてもおかしくないのでは、みたいな話になっていく。なにせラスト近くになって、「書く行為というものが真実存在するなら、いつでも同じものが出力されてくるはずだろう」みたいなことを書いてるのだ。
無論、そうはならない。しかし、小説が同じものに決してならない事について、それがなぜかは棚上げし、たんに不可解なこととしてこの小説は扱っているかのように見える。あるいは、著者は小説がそれぞれ違ってしまう事について、それが素晴らしいことだと言いたいのかも知れないが(そうでなきゃ小説なんて書かないだろうしね)、婉曲すぎて全然伝わってこない。これではね。
「無論ならない」とか、さも当然のように書いたが、小説が成立したころの近代文学はともかくも、現代における文学はなにより定型からいかに逃れるかがレゾンデートルのようになっていて、自明のように思えたからである。人と違うものでありたいという人々の思いが文学を支えている面は絶対にあって、そうであるかぎり、杞憂は資本が今後どのような形で集中するか以外にはない。(といってもそういう杞憂だからこそ大きいんだけどね。)
途中の「叔父」についての種あかしもそれほど面白くなかったが、ラスト数ページの議論にはとくについていけないものが残った。料理や音楽と比べて小説は同じ事を繰り返せない、と言ってみてもねえ・・・・・・。
だってそれらでも同じ事繰り返してないもん。確かにチャーリーパーカーの曲(音符)は繰り返すことが出来るけど、あれと同じ演奏をすることは出来ないし、カレーライスは繰り返せるけど、ジャガイモとタマネギと豚肉で何か作れといわれたら、中華風に揚げ炒めして黒酢足す人もいれば、肉じゃが作る人もいるだろうし。ジャズなんかソロの小説数は同じでも演奏ごとに毎回微妙に違うよ。
小説と例えば「〆鯖」を比べるから、〆鯖はいつも同じ〆鯖だ・・・、と不可思議なところへ行ってしまうんであって、「小説」と比べるべきは「鯖を使った料理」なんじゃないのかなあ。そんなことを考えたのであった。
(ところでこんな小説の感想よりよほど書いておきたいのだが、〆鯖も鯖塩もいいが、私が作る鯖味噌は絶品である。大根と煮たりすることが多いのだが、コツはきちんと落し蓋を使うことと、30分以上煮てから一度完璧に冷ますこと、そして鯖を煮る前にきちんと熱湯を掛けて臭みを除くこと。何よりこの3つだ。高価な味噌など使う必要はない。そして私オリジナルなところは、背骨の脇の小骨も丁寧に全部取り除いて、味がしみやすいように小さく切って煮ることだ。一口半くらいの大きさ。じゅるる。)


以下は、この号の気になった所だけ。

『フィクションの倫理』平野啓一郎

エッセイであるがなかなか読ませる。
どんなフィクションでも結局はネタとしてシニカルに消費しているだけ、という論に対してはっきりNOと言っているのは潔い。人は勧善懲悪の物語を消費することによってカタルシスを得るだろうが、排出しきれないものは残るのだ、と。こんどは、現実が物語のように勧善懲悪されないことに、自覚するかしないかは別としてフラストレーションを溜め込むだろう、と。
例えばごく一部の楽天的なポルノ規制反対論者の論にNOと言ってしまっている訳だけれども、総合的に商売している出版社との関係上、こういう言わなくても良いことはあまり言わない作家は多いと思う。しかし、言わなくても、私が信頼している作家は、平野と同様の倫理をきちんと持っているだろうと思う。少なくとも文学の世界においては、「作品は作品ですから」なんて人はそう居まい。

『バリローチェのファン・カルロス・モリーナ』津村記久子

全く興味のないフィギュアスケートの世界がネタでも一気読みさせるのは流石だが、津村氏は以前サッカーのことで誰が禿げるか云々のことを書いていた記憶があって、しかし興味が一致しないものだなあ。サッカーなんてどこが面白いんだか。
小説としては、職場での先輩に当たる女性との深いようで淡い世界が描かれていてフムフムという感じだが、これだけ興味が重ならないと、その部分の評価もなんだかな、という感じになってしまう。
これは別に津村氏に言うわけではないが、あれほどショービジネスの先進国であるアメリカの、ハリウッドだのMTVだのは受け入れてスポーツは受け入れないんだろう、と思うことがある。この機会に言っておこう。いや、言い切ろう。NFLとNBAとNHLをそれぞれワンシーズンずっと見て、それでその後サッカーを見る気になる事なんてまず無いだろうと。アメリカ人がワールドカップを見ないのは知らないからだが、知っていて見ない人もたぶん多いだろう、と。
まあサッカーは完全に違うスポーツだから、MLBのあとに読売だのハムだの見たくなくなるのと少し違うかもしれないが、NFL知ってる人が同時にバルサの主要人物は知ってても、サッカー好きでストロングセーフティという言葉の意味を知っている人はごくごく少ない。