『新潮』 2010.12 読切作品

今度の仕事ではスケジュール管理が必要かなと思って無印でカレンダータイプの手帖を買ったのですが、わずか一週間後に同じものが値引きされているのを目撃してしまいました。


一年を振り返る事などしないと書いた手前あれなんですが、最近の最も大きなニュースは何といっても関東ローカルで放送されていた中央競馬ワイド中継が終わってしまったことです。柏木集保さんの含蓄あるひとことなども楽しみにしていたのですが、こういう番組はいつまでも続くと思っていたので、あえて毎週欠かさず見るという事もしていなかったのです。ローカルの競馬番組らしい演出感の無さも、それは結局予算の無さでもあるのですが、それは競馬内容を伝える事を何より中心に据えるという事に繋がっていて、フジやテレ東など比べ物にならないくらい好感持てて、落ち着いて見れる番組だったのに。
全くなんという事でしょう。
しかし、今の中央競馬の立たされた状況からすれば、JRAのバカヤローという気もしないのはたしかで、旧態依然とした事をやっていては右肩下がりを加速するだけなのは誰が見ても明らかですからね。すさまじい売上げダウンらしいです。


しかし競馬とかパチンコを支えてきた人々の懐って本当に苦しいんですね。
ま今の若い人なんかは競馬に使う金や時間があったら、携帯ゲームのアイテム集めの方に行くのでしょう。テレビでもひっきりなしの宣伝ぶりを見ると。
この辺は全く私の想像の及ばないところで、むかし大戦略とかネクタリスとかラングリッサーとかファイアーエムブレムとかシミュレーションゲームにはまった頃がありましたが、携帯ゲームの魅力についてはさっぱり分からない。多分いろんなコミュニケーションが取れる所が良いのでしょうが、そうなると益々やる気はしません。


大戦略で、ドイツ軍でプレーすると途中から連合軍に歯が立たなくなるのを思い出しました。そんな設定するんなら、最初からドイツ軍でプレイ可能にするんじゃねーくそったれ、とゲーム機を壊しそうになったり。

『苦役列車』西村賢太

私が知る限りの西村作品は、文学にのめり込んでからの話ばかりだが、これはそれ以前の話。だからといって、これまでに比べとくに工夫のある作品ではないが、面白いものは仕方ない。面白い。
基本的には日雇いと安宿の往復の日々なのだが、自分ではこういう生活は送らないだろうなと思いつつも「分かる」部分があるのだ。このへんが私が説得力と呼ぶものである。こういうふうに自棄を繰り返すのもまた人間のあり様なのだ、と思わせる筆力がある。
しかし一方でここまで書かれると以前指摘された露悪的な部分が気に障るという人の意見も分からなくはない。これほどまでに自分の行動を外側から描写できるような人間が易々と落ちてしまうのだろうか、と。悪いことと知りつつ悪い事を出来るか、いま少し抵抗があるのではないか。あるいは下手すると、悪いことと知りつつも敢えて目を背けて知らないフリをしてはいないか、と。あるいは、この悪こそが「自然」なのだと捉えてはいないだろうかと。云うまでも無く自らの行動にたいして、そのようなメタな視点に立ってしまえば、あらゆることが自然であり、また自然ではなくなるだろう。区別などつけようがなくなる。メタに立てば悪も露悪でしかない。そんな悪は悪ではあるまい。
などと書いていると私小説の危険性みたいな話になりかねず、面倒にして私の力量を超えるのでやめておく。最近感想を書いた広小路作品のテーマなどとあわせれば、自分の事はさておいて不細工な女性を平気で人間扱いしないようなこういう小説を読んだりするほうがよほどアク抜き(世間でできないことを小説で実現する)なのかもしれない、と思ったりもするのだが、読者のアク抜きのように自分の小説が扱われるのが西村の本意なのかは分からない。ただそういう危険はあって、そこで読者に合わせようとしない事を祈るばかりだ。
そういう意味では私もまた、世田谷に住みたがる人間をイナカモノと罵るあたりでその口調に面白さを感じたり、灰汁を抜いてしまったりしたのだが、そこを評価するより、友人を得たいと感じたり、また友人を得たおかげで一段上の仕事にまで一時的にさえ意欲を持ってしまった所などにより留意したい。前者を取り去ってしまえば、魅力が半減以上に減ってしまうのだろうけれども。
ところで冒頭面白いと書いたが、やはり仕事の細部を描いた部分が一番面白い。日雇いがどのように集められ、どんな仕事をし、また休憩はどんなふうにといったところ、あるいは正社員的な身分にまで取り入れられたりするところなど。
仕事をしない人間が本流をなしたのが明治の近代文学ではあるのだが、たとえ始まりがそれであるにせよ、文学としての面白さはさておき、人間の一番面白い面が引き出されるのは仕事なのだ、これは人間の本質とどこか強烈な関わりがある、そんな思いは私の中で強くなるばかりである。

『北極を想う日−雪の練習生第三部−』多和田葉子

一部二部はなんとも得体のしれない感じだったが、人間に育てられたシロクマが人の心を持つばかりではなく、人として振舞うようになるそんな話のようである。つまりはシロクマが新聞読んだりパーティに平気で出たりするのだが、前半で二人の人間が小熊を育てる部分のリアリズムがいつのまにかそんなふうになったりして、なんとも小説というのは自由なものだなあと、心の風通しを良くしてくれる作品であり、他にあまりない、出あう事のなかった小説である。つまりはワンアンドオンリー。シロクマ視点から人間社会に文明批評的に言及するその内容もなかなか面白かったが、面白さはそれだけではなかった。
もちろんこういう小説があるからって、文明というか政治から人間が逃れることのできる筈などこれっぽっちもない。しかしどこかでそれらを相対化できるものがないと生きていけない、というのは大げさだが、相対化や超越を求めてしまうのが近代(的自我)である。それがどこかで「」つきの自由でしかないと分かっていても、同時に、全くの自由を感じたり信じたりする事ができるというのは凄いことだと思う。

『文學アジア 3×2×4』

個別に項目立てるのは面倒なので例によってまとめて書こうと思うが、第一回よりずっと面白かったのは別に島田雅彦が書いていないからではない。今回は韓国作品もわりと読めたし、岡田利規も悪くなかった。全体として感じたのは日本の作家がよりミクロな世界を対象にしていることである。そしてまた日本作品はあらすじでは面白さが全く伝わらないところ。一概に悪いとは勿論いえないが、ときにこうして「日本」を相対化するのも良いことである。
・『緋』河野多恵子・・・夫が海外に仕事に行っているときに空き巣に入られた夫婦の話。妻の微妙な心の変化が主題というかんじ。ミクロだ。
・『耐えられるフラットさ』岡田利規・・・しょうもない演劇に付き合わされたサラリーマンがラーメンを食おうとする話。ミクロである。しかしこの主人公の男の、顔というか個性の無さの描き方が面白かったし、せっかく演劇場から出てきてもラーメン屋での光景までが芝居めいてきてしまっているのも面白い。
・『午後4時の冗談』チョン・イヒョン・・・3番目に面白かった作品。昔知り合いだった女性からの謎めいたメールが主人公に届くという展開が読者を引きこんでいく。それだけでもなかなか面白いのにオチがエイズとは。むろんエイズというのは深刻な社会問題である。
・『4月のミ、7月のソ』キム・ヨンス・・・ちょっとしゃれた会話や言い回しなどがなんとも懐かしい。日本でも20年位前には村上春樹本人か、村上春樹を通じたミニマリズムの影響をうけたこういう作品が幅をきかしていたような。それにしても、主要人物のひとりは国際結婚をしていて、世界はそれほど狭くない。
・『月明かりは誰の枕辺に』葛水平・・・2番目に面白かった作品。国費で海外留学させてもらえるようなエリートが、留学先のドイツで親の反対する国際結婚をしたあげく、文化の溝を越えられず失敗し、今や旅行ガイドで暮らしているという話。近代的自我を発達させたエリートと、ど田舎の両親の生活との落差など、現代中国を覆っている問題が凝縮されている。それにまた、ど田舎の両親の振る舞いに心打たれる。この囚われの中には確かに人間がいてこういうものを旧弊として簡単に退けられる人を私は信じない。また妻と笑顔で会っていたというのが実は離婚した元妻で、養育費をもらっての笑みだったというオチがなかなかだ。
・『海鮮礼賛』須一瓜・・・1番面白かった、というか記憶に残る作品。高層アパートにて家政婦を雇う成功者と、わがままで自己主張の強い若い家政婦という現代的な中国社会の有様が背景でありながら、小説自体は古き良き近代文学の臭い。ラストがハッピーエンドのようなバッドエンドのような終わり具合のせつなさがとくにね。この少女がなんとも個性的で彼女の行動のひとつひとつだけで小説を引っ張っている。