『苦役列車』西村賢太

私が知る限りの西村作品は、文学にのめり込んでからの話ばかりだが、これはそれ以前の話。だからといって、これまでに比べとくに工夫のある作品ではないが、面白いものは仕方ない。面白い。
基本的には日雇いと安宿の往復の日々なのだが、自分ではこういう生活は送らないだろうなと思いつつも「分かる」部分があるのだ。このへんが私が説得力と呼ぶものである。こういうふうに自棄を繰り返すのもまた人間のあり様なのだ、と思わせる筆力がある。
しかし一方でここまで書かれると以前指摘された露悪的な部分が気に障るという人の意見も分からなくはない。これほどまでに自分の行動を外側から描写できるような人間が易々と落ちてしまうのだろうか、と。悪いことと知りつつ悪い事を出来るか、いま少し抵抗があるのではないか。あるいは下手すると、悪いことと知りつつも敢えて目を背けて知らないフリをしてはいないか、と。あるいは、この悪こそが「自然」なのだと捉えてはいないだろうかと。云うまでも無く自らの行動にたいして、そのようなメタな視点に立ってしまえば、あらゆることが自然であり、また自然ではなくなるだろう。区別などつけようがなくなる。メタに立てば悪も露悪でしかない。そんな悪は悪ではあるまい。
などと書いていると私小説の危険性みたいな話になりかねず、面倒にして私の力量を超えるのでやめておく。最近感想を書いた広小路作品のテーマなどとあわせれば、自分の事はさておいて不細工な女性を平気で人間扱いしないようなこういう小説を読んだりするほうがよほどアク抜き(世間でできないことを小説で実現する)なのかもしれない、と思ったりもするのだが、読者のアク抜きのように自分の小説が扱われるのが西村の本意なのかは分からない。ただそういう危険はあって、そこで読者に合わせようとしない事を祈るばかりだ。
そういう意味では私もまた、世田谷に住みたがる人間をイナカモノと罵るあたりでその口調に面白さを感じたり、灰汁を抜いてしまったりしたのだが、そこを評価するより、友人を得たいと感じたり、また友人を得たおかげで一段上の仕事にまで一時的にさえ意欲を持ってしまった所などにより留意したい。前者を取り去ってしまえば、魅力が半減以上に減ってしまうのだろうけれども。
ところで冒頭面白いと書いたが、やはり仕事の細部を描いた部分が一番面白い。日雇いがどのように集められ、どんな仕事をし、また休憩はどんなふうにといったところ、あるいは正社員的な身分にまで取り入れられたりするところなど。
仕事をしない人間が本流をなしたのが明治の近代文学ではあるのだが、たとえ始まりがそれであるにせよ、文学としての面白さはさておき、人間の一番面白い面が引き出されるのは仕事なのだ、これは人間の本質とどこか強烈な関わりがある、そんな思いは私の中で強くなるばかりである。