『群像』 2011.1 読切作品ほか

バイク用品店のセールが2月一杯までと思っていたら昨日で終わっていました(これ書いてるのは28日)。頭きたので今日はちょっと熱く語ります。


先日書いた無縁社会問題ですが、それについて、無縁でいいじゃないか、と、介護などの問題を地縁・血縁で解決させてきた今までの社会に問題があるのだから、みたいに言う人がいます。
気持ちや結論は分かるんですが、え、と思うところがあって。
というのは、介護をほんとうに地縁血縁で解決させてきたのか、と。
田舎に両親を置いて都会に就職するというパターンは、高度成長期にはすでに当たり前になっている話です。昭和三十年代後半からの話です。しかし実はその頃にはまだ介護なんて問題は生じてないんですよね。介護という言葉は1970年以降に介護用品の会社の社長が広めたって話は有名です。また、有吉佐和子恍惚の人を書いたのもその頃ではなかったか。つまり「ボケ」がこのころやっと知られたのです。
今は認知認知と言いますが、例えば痴呆症の発生率は65歳で1%程度ですが、75歳となるとぐんとあがるとネットには出ています。一方、高度成長期以前、地方から都市への人口移動がそれほど見られなかった地縁血縁があった頃の平均寿命なんて、いちいち調べなくても60歳は行ってないだろうなと想像がつきます。
どういう事が言いたいのかというと、地縁血縁が機能していたときには、痴呆症も発生していないし介護問題なんてのも僅かなんですよ。脳以外への医療技術ばかりが発達して、以前なら病気で死ぬまで持ちこたえていた脳が内臓より先におかしくなるという現象が発生してきたのではないか、と。つまり、とても新しい問題なのではないか、と。
取り合えず、新しい問題の受け皿として地縁・血縁しかなかっただけで、今までもそんなのが機能してきた訳ではない。素人に認知症の介護なんて元から無理で、息子のことすら忘れるんですから他人がみても一緒なんです。


整理すると、"今まで地縁血縁で解消してきた"みたいな事を言ったら駄目という事。そんな事いいだしたら、無縁であることの余程のメリットを提示できない限り、やっぱ介護とか考えると地縁血縁強化がいいよね、って話に持っていかれるだけです。
今までだって地縁血縁なんて機能してこなかった、ここまで言わないと。
しかしタバコ吸ってれば、肺がんになる可能性が1.2倍にもなってくれるというのに、増税で止める人が増えたら認知症もそのぶん増えるでしょう。肺がん治療の保険料と介護費用と社会的負担で考えれば、どっちもどっちじゃないでしょうか。

『赤の他人の瓜二つ』磯崎憲一郎

久しぶりだわ。頭を叩き割られるような衝撃を味わうなんて。
もう店頭にない月刊誌だからいったいどういう事が起きたのか説明してもモラルに反しないのかもしれないが、芥川賞作家である。この小説だって、これだけで単行本化されるかはともかく、この作品が収録されたものは何かしら出る可能性は高いだろう。
いくら知名度が低い当ブログとはいえ、まだ読んでいない人がたまたまここを訪れ、今後読む可能性がほんの僅かなりともあれば、それを考慮したくなる。そのくらい素晴らしい作品なのだ。一人でも文学というものの衝撃を味わって欲しくなるのだ。
といいつつも、そもそもどういう事が起こったのか、説明できるのか、っていう問題がある。粗筋のしにくさには、あえてしにくさを増した?っていうくらい磨きがかかったというか。確たる主人公がいるわけでもなし、いやいるんだが、名前が与えられていない。
名前が与えられているのは、むしろ途中でいつのまにか移行するチョコレートが始めてもたらされた頃のヨーロッパの歴史的人物達のほうで、コロンブス恋愛模様や、メディチ家のお家の事情が語られたりする。いつのまにか移行と書いたが、現代(といっても少し前)日本と近世ヨーロッパの話のつながりに脈絡があるわけでもなく、現代日本の主人公(らしき人物)がチョコレートの歴史を回想したわけでも学んだわけでもない。ただ作者がチョコレートで無理やりつなげただけだ。しかしこの腕力で無理やり広げたやり方で、見事に小説世界が広がるのだから驚く。驚くほど俯瞰の位置にまで持ち上げられてしまう。
たとえば円城塔なんかの作品が、科学という一見普遍的な視点のフィルターを通していて文学をメタに俯瞰できるかのようだが、むしろ現在にあることの息苦しさしか感じさせないのと、じつに好対照だ。
磯崎作品というのは、例えば、一部分を抜粋して誰かに読んでもらえば分かるが、実になんの奇もてらっていない、ごく普通の理解しやすい文章が並ぶ。この辺も円城作品なんかと好対照だが、でありながら、唯一無比度はむしろ高い。この文章でまるで新たな発明品にでも出会ったかのような感じすら抱かせるのだから、すごい、やはり文学は。
音楽なんかじゃありえないだろうな、と思う。翻訳可能絶対主義なんかクソクラエだ。誰にも受け入れられるポップスなんかやったってやがて行き詰るのは、今の音楽業界みてりゃ分かるじゃん。ジャスで言えば、誰もが発明を競って、最終的にはノーコード、アバンギャルドまでいきついた。音符を無視してフリーキートーンだのめちゃくちゃやれば確かに唯一にはなれる。あるいは西洋の楽器から脱却するとか。しかし音符とかコードにのってサックスやピアノ使ってたら、どんな演奏したところで今や絶対に新しくはなれない。しかし小説では、それが尚、可能なのだ。
ともかくも、その粗筋のなさ、あるいは秘匿にしておきたいという理由および、私じしんの読解力の無さによってこの小説の内容の詳しい事にはこれ以上触れないでおくが、読み終わって感じたのは、我々が息をしている現場=「いまここ」のとんでもない不思議さと、それを受け入れることが一番の倫理であるということである。ある人物の、とんでもない運命への直面と、それの受け入れの屈託無さの対比において、その倫理を知るのだ。むろん、その屈託の無さに説得力を与えられる筆力があってこそなのだが。

『雲をつかむ話』多和田葉子

新潮で最近、リアリズムから微妙にずれた話を読んだので、たまには意匠を凝らさない、日馬富士じゃないけど真っ向リアリズムを読んでみたいと思っている作家なのだが、今のところはそう。やっぱ連載は、ひとつの作品が分量でぶつ切りになるのではなく、一回一回にそれなりに筋の変化、起伏があって、なおかつ次が少し楽しみになるくらいがいいよねえ。

『裂』花村萬月

小説内に作者や講談社が実名で出てきたり、小説論の一部は面白く読んだが、それだけだった。ということは、つまり連載終了まずはおめでたい、と。やったね!
とにかく似たような事は何度も書いたが、たんなる精液を相手の男の名前で表現したりするのが、オヤジ臭くてスゲー嫌。この主人公女編集者はオヤジかよ。