『赤の他人の瓜二つ』磯崎憲一郎

久しぶりだわ。頭を叩き割られるような衝撃を味わうなんて。
もう店頭にない月刊誌だからいったいどういう事が起きたのか説明してもモラルに反しないのかもしれないが、芥川賞作家である。この小説だって、これだけで単行本化されるかはともかく、この作品が収録されたものは何かしら出る可能性は高いだろう。
いくら知名度が低い当ブログとはいえ、まだ読んでいない人がたまたまここを訪れ、今後読む可能性がほんの僅かなりともあれば、それを考慮したくなる。そのくらい素晴らしい作品なのだ。一人でも文学というものの衝撃を味わって欲しくなるのだ。
といいつつも、そもそもどういう事が起こったのか、説明できるのか、っていう問題がある。粗筋のしにくさには、あえてしにくさを増した?っていうくらい磨きがかかったというか。確たる主人公がいるわけでもなし、いやいるんだが、名前が与えられていない。
名前が与えられているのは、むしろ途中でいつのまにか移行するチョコレートが始めてもたらされた頃のヨーロッパの歴史的人物達のほうで、コロンブス恋愛模様や、メディチ家のお家の事情が語られたりする。いつのまにか移行と書いたが、現代(といっても少し前)日本と近世ヨーロッパの話のつながりに脈絡があるわけでもなく、現代日本の主人公(らしき人物)がチョコレートの歴史を回想したわけでも学んだわけでもない。ただ作者がチョコレートで無理やりつなげただけだ。しかしこの腕力で無理やり広げたやり方で、見事に小説世界が広がるのだから驚く。驚くほど俯瞰の位置にまで持ち上げられてしまう。
たとえば円城塔なんかの作品が、科学という一見普遍的な視点のフィルターを通していて文学をメタに俯瞰できるかのようだが、むしろ現在にあることの息苦しさしか感じさせないのと、じつに好対照だ。
磯崎作品というのは、例えば、一部分を抜粋して誰かに読んでもらえば分かるが、実になんの奇もてらっていない、ごく普通の理解しやすい文章が並ぶ。この辺も円城作品なんかと好対照だが、でありながら、唯一無比度はむしろ高い。この文章でまるで新たな発明品にでも出会ったかのような感じすら抱かせるのだから、すごい、やはり文学は。
音楽なんかじゃありえないだろうな、と思う。翻訳可能絶対主義なんかクソクラエだ。誰にも受け入れられるポップスなんかやったってやがて行き詰るのは、今の音楽業界みてりゃ分かるじゃん。ジャスで言えば、誰もが発明を競って、最終的にはノーコード、アバンギャルドまでいきついた。音符を無視してフリーキートーンだのめちゃくちゃやれば確かに唯一にはなれる。あるいは西洋の楽器から脱却するとか。しかし音符とかコードにのってサックスやピアノ使ってたら、どんな演奏したところで今や絶対に新しくはなれない。しかし小説では、それが尚、可能なのだ。
ともかくも、その粗筋のなさ、あるいは秘匿にしておきたいという理由および、私じしんの読解力の無さによってこの小説の内容の詳しい事にはこれ以上触れないでおくが、読み終わって感じたのは、我々が息をしている現場=「いまここ」のとんでもない不思議さと、それを受け入れることが一番の倫理であるということである。ある人物の、とんでもない運命への直面と、それの受け入れの屈託無さの対比において、その倫理を知るのだ。むろん、その屈託の無さに説得力を与えられる筆力があってこそなのだが。