すばる文学賞 2編

最近不況をめぐっての暗い気持ちにさせるニュースばかりの中で、同じく不況を原因としていながら痛快だったニュースといえば、ホンダF1撤退です。
といっても別にホンダというメーカーになんの含みもありません。いやむしろオートバイ4メーカー全て乗った経験があるものとして確実に言えるのは、ホンダのバイクが一番作りがしっかりしている事です。細部の作りがなんか違うのですよ。4輪はなぜかめぐり合わせでホンダだけ乗ったことが無いのですが。ちなみに、4輪のなかで一番乗りやすかったのはスバル、次がマツダ。日産がいちばん苦手な感じでした。
話がそれましたが、私は、ホンダのF1撤退で「え〜なんで・・・」と日本党ナショナリストが残念に思うであろう事が嬉しくて仕方ないのです。ザマーミロと。


ところでこれはついでですが、文芸誌の新年号が出揃いまして、『新潮』と『すばる』がなんかハデになってます。しかし中身はあんまり変わってません。変わり映えのしない『群像』『文學界』のほうが、目次を見る限りではかなり楽しみ。
松浦理英子津村記久子の対談をさっそく目を通しましたが、まさかこの二人がロッキンオンの話で交歓を深めるとは。私もロック(洋楽)を聴くことが特別であった時代には、毎月1日(ROの発売日)が楽しみな人間だったので感慨深いです。その後私はブルースとかJB、アイズレー、スライなど古い黒人音楽に関心が移ってしまい、津村さんが熱心に読んでいる頃とは余り重なってないのですが。
あ、あと蓮実重彦がなんか元気です。

『灰色猫のフィルム』天埜裕文

猫が登場しそうな題名・・・猫が出てくる小説は、ある小説家を思い出す事もあるし、あまり良いものに出会った覚えもなく、読む前は不安が大きかったのだが、しっかり裏切ってくれた。なかなか力作。
描写に全く無駄がないとまでは言わないが、短いセンテンス中心で、端正な印象。比喩を多用しなくても、文章さえしっかりしていれば、魅力的な表現がこうして多々生まれるのだ、という事を思った。
主人公はあまりモノを思わない人間として描かれている。これは小説の表現上意図してそうしているという部分もないとはいえないが(例:ハードボイルド小説のように)、何より母親を刺す人間だ。リアリズムとしても、むしろそれがしっくりしている。
そしてその主人公がモノを思わない事で描写としていっそう効果を上げているのが、主人公が、駅で誰も聞いていない歌を唄う二人組に出会う所だろう。このあたりは、この作家の言葉というものへの拘りがもっともよく表れた箇所ではないか。この二人組が歌う歌詞が「最後に君へと贈った言葉が」。わたしたちは、こんなものは全く空疎なものとしてしか最早聴く事ができない。しかし作者は空疎だとか、二人組が惨めに見えたとは書かない。書かないが、淡々と主人公にその場を通り過ぎさせることで、却ってその空疎ぶりが際立たせる。この表現力は相当だ。
そして川原での人間関係が面白い。他者との緊張感がよく出ている。主人公に音楽を紹介してくれるもう一人の人殺しもじゅうぶん病的なのだが、世話焼きでしゃべり好きで猫の絵を描くおじさんが、じつは最もコミュニケーションが取れない人間だというのも素晴らしいオチで、考えさせられるものがある。おそらく彼は、彼とコミュニケーションをとろうとしなかった人間と主人公が通じ合う事で、主人公を敵側の人間とみてしまいあらぬ罪を着せてしまうのだが、このような病は誰もが身近に見ているのではないか。ホームレスの世界もわれわれとしっかり地続きなのである。
他にも、トイレに張られたなぞの写真とか、テントでのもう一人の殺人者の「生まれてきたかっただろうに」という台詞とかが、まだ様々なことに疑問のなかったころの子供としての主人公を思い起こさせるべく、じつにうまく配置されている。けっきょく親子関係の何かの破綻があり、その結果としての居場所探し(アイデンティティ確保)であり、整理してみればテーマとしては単純なものなのかもしれないが、この配置にも見られるがごとく描き方によっては魅力的になるものなのだ。小説というのはそういうものではないのか。単純な日々のなかに単純でないものを見出すという。むろんそれだけでもないのだろうが。この小説はわれわれが普通に暮らしていれば出会うことのないような極端な場面が見られはするのだが、そんな事まで思わせた。
また、総じた雰囲気として、間違いなく同じ時代の空気を吸った人が書いたというものを確実に感じさせる。描写が短く単純な分、泉谷しげるがかつて「春夏秋冬」で歌ったかのような都市の「風の無さ」=「風景の無さ」をそこに感じてしまうからだろうか。

『赤い傘』花巻かおり

ブコメという懐かしい言葉を思い浮かべてしまうような平板な家族の描写を主として、欠点は多数あるだろうが、私が思う大きな欠点はふたつ。
せっかく題名にまでした赤=抵抗というテーマがどこかへ飛んでしまっている事。主人公は日々にしっかり埋没して上手くやっている。そんな雰囲気しか伝わってこない。だって家族に自分の恋愛感情など報告したりもするのだ。
もうひとつ。主人公の無邪気な子供めいた行動と、ある種の内省がかけ離れすぎている。友達の弟の小学生の気持ちをあれほど深く測れるのは勉強のできない女子中学生としてリアリティを欠く。
これは姉も同じ。姉の行動がまた子供じみ過ぎていて、彼女はこの物語のなかでいちばん深みと謎を持たせるべきところなのではないか。それが無い。
評価できるのは、幼い主人公なりにフィリピン人に何かを感じさせようとしていること。赤いバッグに象徴させているその内容じたいは平板な認識でしかないが、それは欲をかき過ぎかもしれない。とりあえず、こういう階級的要素を小説内に持ち込むのは評価したい。