『新潮』 2008.11 評論2編

平野啓一郎高村薫もいなくなり『新潮』に魅力を感じなくなってきてたので、他の連載ってどんなだっけと昔の号を読み返していたのですが、松浦寿輝とか佐藤優とかそれなりに面白い面はあるものの、これを目当てにカネを払うもんでもないなあ、というのが正直な感想でした。あと教えてクラシックがシリーズになってないなあ、と。
読み返すなかで、つい『ばかもの』をまた読んでしまっていたのですが、やはり面白い。で、少し散らかった印象があることに気付きました。いろんな人や問題が置き去りにされたままのような。
でも却ってそこが良いのかもしれないと、今は思うようになりました。だって我々だって日々、別にテーマを絞って生きてるわけじゃないですからね。
こういうところって、推理小説をはじめ娯楽小説ではあまりない要素ではないでしょうか。

『母性のディストピア』宇野常寛

ちゃんと読んでない(し読む気もしない)ので評価不能。だってのっけから読む気無くさせるんだもん。何だろうこの生硬さ、そして空回り、みたいな。
いわく、「<成熟>についてもう一度考えてみようと思う。<成熟>という言葉が嫌ならば<老い>でも構わない。」あたりで、なんで「もう一度」なんだ?成熟についてそれほど考えた事のない読者は最初からお呼びでないってわけ〜?、とか、その<>付けはどういう意味なの?っていうのもあるが、その後にこんな事言われたら、後が続かなくなる。
「<成熟>という言葉がときにアレルギー反応とも言うべき忌避と反発を生むのは、彼らを<老い>と<死>について考えることへの言葉にならない恐怖が縛りつけているからなのだろう。」
???
老いについて考えるのがアレルギー反応ともいうべき忌避や反発を生むんなら、「成熟という言葉が嫌なら老いでも構わない」なんて事ないじゃん全然。ガオー。もう一回考えて見ようとかいっておきながら、アレルギー反応(考えることへの拒否反応)起こさせてどうするねん、なんやそれ、て思わず関西弁にもなるわ。
間違いなくいえるのは、評論だって文学であって、文学というのは文章が肝心であるということ。良い評論は良い詩でもあるみたいな事をいった人が居た覚えがあるけど、その通りなのだ。
ともあれ、成熟という言葉やそれについて考える事のまえに、宇野氏の文章にアレルギー反応起こしてしまって終わり。

『柄谷行人論』大澤伸亮

新潮の評論は面白くない事度々で、あまり期待しないで読んだが、これはかなり秀作。あ、新潮の評論面白くない言ったけど、正面からの文芸評論があまり各誌載らないので、新潮のこういう試み自体は悪くないと思います。
でこれは、もう半ば終わった人とさいきん顧みられる事の無い柄谷氏についての評論なのだが、半ば終わってると見られているせいではなかろうが、本人も回りも当事者があまり語りたがらないNAMあたりまで語ろうとしているのに好感が持てた。本人が総括しないなら代わりにやってしまえ、ではないけど、NAMの失敗は語られ無さ過ぎであって、こうして少しでも言及する人がいるというのは良い事だと思う。
そしてこの柄谷行人論じたいが、柄谷行人的なちょっと飛躍した言い切りをしていて、なかなか魅力がある。評論はこうでなくっちゃ。とくにカントの道徳的命法の「君自身の人格ならびに」に注目した所が面白い。そこからイエスの隣人愛解釈へと至るのだが、たんにイエスの言葉を奴隷道徳と切り捨てるのではなく価値転換を図るあたりは、柄谷のマルクス読解的である。私はじつはこの結部を最初眼を通して、なかなか面白いじゃないのか、と最初から読んだのだ。