『灰色猫のフィルム』天埜裕文

猫が登場しそうな題名・・・猫が出てくる小説は、ある小説家を思い出す事もあるし、あまり良いものに出会った覚えもなく、読む前は不安が大きかったのだが、しっかり裏切ってくれた。なかなか力作。
描写に全く無駄がないとまでは言わないが、短いセンテンス中心で、端正な印象。比喩を多用しなくても、文章さえしっかりしていれば、魅力的な表現がこうして多々生まれるのだ、という事を思った。
主人公はあまりモノを思わない人間として描かれている。これは小説の表現上意図してそうしているという部分もないとはいえないが(例:ハードボイルド小説のように)、何より母親を刺す人間だ。リアリズムとしても、むしろそれがしっくりしている。
そしてその主人公がモノを思わない事で描写としていっそう効果を上げているのが、主人公が、駅で誰も聞いていない歌を唄う二人組に出会う所だろう。このあたりは、この作家の言葉というものへの拘りがもっともよく表れた箇所ではないか。この二人組が歌う歌詞が「最後に君へと贈った言葉が」。わたしたちは、こんなものは全く空疎なものとしてしか最早聴く事ができない。しかし作者は空疎だとか、二人組が惨めに見えたとは書かない。書かないが、淡々と主人公にその場を通り過ぎさせることで、却ってその空疎ぶりが際立たせる。この表現力は相当だ。
そして川原での人間関係が面白い。他者との緊張感がよく出ている。主人公に音楽を紹介してくれるもう一人の人殺しもじゅうぶん病的なのだが、世話焼きでしゃべり好きで猫の絵を描くおじさんが、じつは最もコミュニケーションが取れない人間だというのも素晴らしいオチで、考えさせられるものがある。おそらく彼は、彼とコミュニケーションをとろうとしなかった人間と主人公が通じ合う事で、主人公を敵側の人間とみてしまいあらぬ罪を着せてしまうのだが、このような病は誰もが身近に見ているのではないか。ホームレスの世界もわれわれとしっかり地続きなのである。
他にも、トイレに張られたなぞの写真とか、テントでのもう一人の殺人者の「生まれてきたかっただろうに」という台詞とかが、まだ様々なことに疑問のなかったころの子供としての主人公を思い起こさせるべく、じつにうまく配置されている。けっきょく親子関係の何かの破綻があり、その結果としての居場所探し(アイデンティティ確保)であり、整理してみればテーマとしては単純なものなのかもしれないが、この配置にも見られるがごとく描き方によっては魅力的になるものなのだ。小説というのはそういうものではないのか。単純な日々のなかに単純でないものを見出すという。むろんそれだけでもないのだろうが。この小説はわれわれが普通に暮らしていれば出会うことのないような極端な場面が見られはするのだが、そんな事まで思わせた。
また、総じた雰囲気として、間違いなく同じ時代の空気を吸った人が書いたというものを確実に感じさせる。描写が短く単純な分、泉谷しげるがかつて「春夏秋冬」で歌ったかのような都市の「風の無さ」=「風景の無さ」をそこに感じてしまうからだろうか。