高橋源一郎様ありがとうの巻 『文學界』2008.3より

陽射しの色も変わってきましたね。
私がいちばん好きな季節の到来です。寺山修司には、われに5月を、という名言があってその意味合いの正確なところは分かりませんが、我に3月4月をと私なら言いたいところ。
気候の寒さと陽の光のミスマッチがなんか心地良くって、日当たりの良い所にいると"さむ気持ちよい"のです。


でも、もっと大きな理由は別れと出会いの季節であることでしょう。とりわけ出会い。
新しい組織や状況に立たされることで否応無く感じさせられる緊張感、そして孤独感。一人で世界と対峙していることが一層意識され、風景への意識を鋭敏化させるのでしょうか。


じつは花粉症なんですが。

『ニッポンの小説』高橋源一郎

いつもつまらんつまらん紙の無駄だと言ってきた高橋源一郎のページだが、じつは、『新潮』の福田和也の連載などと違って一応目を通している。たんに何をどう書いてくるのか予想がつきにくい部分もあるからなのだろうが、正直、高橋源一郎にたいする期待を完全には捨てられないのだ。
今月は大部分が穂村弘の短歌評論からの引用で、それに高橋源一郎のコメントがつくというスタイルなのだが、高橋源一郎が書いたであろう部分に関してはどうでもよくて、いやどうでも良いと言い切れるくらいに読んじゃいないのだけど、つまりそういう部分をどうでも良いと思えるくらい穂村氏が評論で引用している短歌が面白い。
とくに平成に入ってからの、つまりバブル崩壊後からのものがとても面白い。サラダ記念日に何も感じなかった私が面白いと思えるような短歌が世に存在することを教えてくれてありがとう、高橋さん、というくらい。
いちばん面白かったのが斉藤斉藤という人を食った名前の人のもの。それから松木秀さん。松木さんの短歌は素直に世の中に対する違和、生きにくさを形にしていて新鮮だったし、円周率のことを歌ったやつは上手い!と思った。斉藤さんの短歌は、たんに生きにくいだけでなくてそれでも積極的に世を捉えて行こう世に関わっていこうという感覚があり、ネットで他の歌も読ませていただいたが、すごく共感できる部分がある。感動にしばらくその歌の前で止まってしまうことも。


このふたりを括って論じてしまうのはちょっと乱暴だが、感じたのは、生活に密着していて、その生活の中で特別に感じたことではない「普通に」感じていることを歌にしているという事。俵万智のは生活に密着しているようでありながらやはり特別な感情についての歌で、どこか私からは遠かったのだ。松木さんの歌などは、テレビやネットで出会えるようなことを歌にしているものもあり、四畳半が世界を歌うみたいな感じなのだ。社会学風なつまりいやらしい言葉でいうとメディア時代?の人間の短歌という感じか。ただしそこには、傍観者でいいんだ的なポストモダンな態度はない。

文學界の連載など

やっと『常夏の豚』のアウトラインが見えてきたというか、これは矢作俊彦のニッポン百景にも通じる地方都市の滑稽な光景を映すもので、様々な光景を複数のトピックを通じて綴ってくものなのかな?で、地方の方こそがむしろグローバリズムの真っ只中であることが実感できるかのような光景が広がっている、と。テーマとしては非常に面白い。
『心はあなたのもとに』『ドンナ・マサヨの悪魔』『海峡の南』のなかでは、ドンナ・マサヨがやや面白い程度かな。村上龍の小説は、ひょっとしたら、素人が考えてるほどエグゼクティブな人達と言うのは狂気っていうほどではないし余裕のある普通の人たちなんだよ、ってことを書いてるのかもしれないが、そのせいか話自体つまらない事この上ない。愛人を三人も抱えていながら、まったく他人の悪意に晒されるような状況にならないというのは、やはり信じ難いのだ。
伊藤たかみは始まったばかりでなんとも言えないが、主人公の男は村上の主人公以上に鼻持ちならない気取った奴で、よほど話が面白くならないと読んでいて不快になるばかり。