『ニッポンの小説』高橋源一郎

いつもつまらんつまらん紙の無駄だと言ってきた高橋源一郎のページだが、じつは、『新潮』の福田和也の連載などと違って一応目を通している。たんに何をどう書いてくるのか予想がつきにくい部分もあるからなのだろうが、正直、高橋源一郎にたいする期待を完全には捨てられないのだ。
今月は大部分が穂村弘の短歌評論からの引用で、それに高橋源一郎のコメントがつくというスタイルなのだが、高橋源一郎が書いたであろう部分に関してはどうでもよくて、いやどうでも良いと言い切れるくらいに読んじゃいないのだけど、つまりそういう部分をどうでも良いと思えるくらい穂村氏が評論で引用している短歌が面白い。
とくに平成に入ってからの、つまりバブル崩壊後からのものがとても面白い。サラダ記念日に何も感じなかった私が面白いと思えるような短歌が世に存在することを教えてくれてありがとう、高橋さん、というくらい。
いちばん面白かったのが斉藤斉藤という人を食った名前の人のもの。それから松木秀さん。松木さんの短歌は素直に世の中に対する違和、生きにくさを形にしていて新鮮だったし、円周率のことを歌ったやつは上手い!と思った。斉藤さんの短歌は、たんに生きにくいだけでなくてそれでも積極的に世を捉えて行こう世に関わっていこうという感覚があり、ネットで他の歌も読ませていただいたが、すごく共感できる部分がある。感動にしばらくその歌の前で止まってしまうことも。


このふたりを括って論じてしまうのはちょっと乱暴だが、感じたのは、生活に密着していて、その生活の中で特別に感じたことではない「普通に」感じていることを歌にしているという事。俵万智のは生活に密着しているようでありながらやはり特別な感情についての歌で、どこか私からは遠かったのだ。松木さんの歌などは、テレビやネットで出会えるようなことを歌にしているものもあり、四畳半が世界を歌うみたいな感じなのだ。社会学風なつまりいやらしい言葉でいうとメディア時代?の人間の短歌という感じか。ただしそこには、傍観者でいいんだ的なポストモダンな態度はない。