『猫キャンパス荒神』笙野頼子

はっきり言ってこの訳の分からなさは圧倒的だ。台所神だか何だか知らんが、学が浅いのでどこまで実際にある神話をベースにしているのかさっぱり分からんが、その神さまが自らのもとに来ることになった由来が、誰々神から誰々神が生まれ、あそこに派遣されて云々と、ずらずらと語られ、私にとっては全くはっきりいってどうでもいい世界なのに読ませてしまう。遺産相続をめぐるあれこれで想起される家族の思い出だとか、あるブロガーとの戦い(KOYANOさんだろうか?)も書かれているが、それらも、恐らくは実際の出来事をベースにしていると思える分興味深く、また実際を小説化するねじり方も絶妙であると思う。とくに、神がところどころで行う託宣も、半分ふざけたような小ばかにしたような口調で(神さまなのに)訳の分からんユーモアがあって、もう唯一無比の小説世界である。圧巻だ。とてもじゃないが、猫の世話や親族とのやり取りで消耗しきっていたとは思えない書くパワーを感じるのだが、何しろ、自分があれこれ言葉を選んでいるわけではなく、ただの書く機械になっているだけで、言葉が出てくるのだみたいなことも書いていて、それならさもありなん。なんて、機械なんて、もちろんそんなのフィクションだが、半分は本当なんじゃないかっていうくらいのものだ。
と、思いっきり誉めておいて何だが、小説内にときおり出てくる原発のその構造批判には、まったく説得されない。というと、作者からすれば、おれの小説読む意味ないじゃんそれじゃ、と言われそうだが仕方ない。私は、戦後の言語空間が固定させてしまった国家と個人を分離して(国家=悪、個人=善)とするような旧左翼的単純世界観のダメさ加減がはっきり露呈したのが今回の原発事故だ、くらいに考えているので。今回のことで盛んに東電や政府を批判するひとたちは、自分たちにまったく非がないような口ぶりなのであるが、国家のやることに関しては、それがどんなに遠いつながりであってもなんらかのかたちで個人が加担しているのだくらいの応分の負担の感覚があればこそ、原発のずさんな管理というのは放置されなかったのではないか、と思ったりするのだ。戦争責任は戦犯とされる人たちのみにあるのではないということを突き詰めてこなかった結果がこれなんじゃないか、と。未だに周辺国から過去のことを言われるたびにトンチンカンな対応をしているのもその流れにある。賠償なども東電が勝手によろしくやるんでしょくらいに考えている人が大勢だが、もうすでに国費が投入されていて、実際にも倫理的にも賠償をしているのは我々なのだ。責任なんて実際には負わされているのに、いまだに責任はないよ言説が横行している。これも、日本国民が身銭を切るという感覚なしになされた韓国ほか周辺国への経済援助とおなじような流れ。いままでさんざん責任を認めてきた(=だからこそ援助も惜しまなかった)はずなのに、そのこと忘れ、アベだとか何かっつーと見直しだなんだと矛盾すること言うんだから、そりゃ韓国も怒るのだが、その怒りすら理解できない。
と、小説と関係ないところまで暴走した。このへんで。結論として、この作家の、ひとつ世界を作り上げる構築力はすごい、ということです。