『電気作家(前編)』荻野アンナ

前編で感想書くのはあれだが、後編についていつ書けるか分からんので、というか前編ですでに傑作なので書かざるをえない。くしくも笙野頼子と前後することになったが、同じように通例より大分ヒネった私小説ともいえる両作品をくらべ、言語力というか訳の分からなさでは笙野頼子に軍配が上げざるをえないものの、こちらもなかなか強力で、なかで原発とかエネルギー問題に関して発言しているところに関しては、観念的な批判など足元にすら及ばない説得力がこちらにはある。なにしろ、電力業界に取材しあれこれ書いたことが実際にあるらしいのだから納得である(ちなみに題名の由来はそれ)。自嘲気味に電力業界の手先みたいなことやっちまったよ、みたいな感じで、ギャグっぽくユーモア交えて書いていて、自嘲できるというのは自分を客観視できる冷静さがあるということで安心なのだが、それでもこの小説の根底にあるのは怒りだ。笙野頼子の、ほらね私の言ったとおりでしょ的な、悲しみつつもどこか余裕すら感じさせる怒りに同調する気分はまったく生じる事がないが、荻野アンナの怒りにはシンパシーを抱く。そして荻野は、再生可能エネルギーなるものの現実もどんどんばらしてしまうのだが、前半部分読んだだけで、エネルギーに関して過去に業界に取材してあれこれ書いたのは、ぜんぜんやっつけ仕事ではなかったことが分かる。「電気作家」などと作者は自嘲するが、何も考えずにただ毎月電気料金を払い享受するだけだった者よりは、はるかに倫理において勝っている。とくに、原子力発電所の技術者に直接取材したときのことを書いた第三章については、原発事故以後書かれたもののなかで、もっとも感動させられたかもしれない。
ちなみにいっておくが、著者はそれでも私は原発に賛成だとかそんな単純なことを言いたいわけではない。あれだけの事故の様相を見せられてやはり迷っている。それでも今できることとして、自分が過去に行ったことについてきちんと責任は取っておこうということである。軽々しく「反省」できるひとなんてのは、けっきょく軽々しくしか関わってこなかったから、軽々しく「反省」できるのだ。また、ただちに「反省」できるひとなんてのは、半ば確信犯的に悪いことをやっていた自覚があればこそ、ただちに「反省」したりするのだ。
事故後も、たとえば意見交換会に社員を出席させようとしたりしたりすると電力会社は反省がないとか言われて、事故前に業界に関係していた人は「私は貝になりたい」のごとく黙することしか許されない言論状況になっていて、大の大人が、ただちに、軽々しく反省できないのであればそこにはそれなりの理由があるであろうし、それでも大衆が性急なのは仕方ないとして、文学者ならその理由に思いをはせてもおかしくないところ、あろうことか文学者のうちでさえ大衆に付和雷同するようなのがちらほらいて、で、そんななか今回、荻野アンナのようなひとが怒りを表明する場を持ちえたことは、ほんの少しながらほっとさせられた。
これ以上書くと、小説と関係ないところへ暴走しそうなのでこのへんで。結論として、村上春樹にある時期から私は一切手を出さないできたのだが、大正解だったな、と。