『強震モニタ走馬燈・葬式とオーロラ(短篇二作)』絲山秋子

強震モニタ走馬燈・・・震災と前後して離婚した女性とその幼馴染のはなし。その離婚した女性は、何かが壊れてしまったかのように「強震モニタ」という日本列島の揺れをリアルタイムに色で表示するサイトばかり見ている。で、いつかまた同じことが、あるいはあれ以上のことが起こって何もかも変わってしまうに違いないと期待するかのように恐れている。
この女性の存在は、震災からある程度たった今、あのときメディアでさんざん言われた「第二の戦後」だとか「これで日本もいやがうえにも変わらざるをえない」だとか、そういう言葉でビッグなイベントとして消化しつくして、また変わらない日常を生きている私たちの今に対して、違和を突きつけるものである。おそらく言葉では消化できなかったのだ。一見やっていることは痛ましく滑稽にさえ思えるが、言葉で消化できなかったひとは、被災地に近くなればもっといるのかもしれない。
と、そういう感想とは別に、主人公はもう片方の、まだ未婚のしかし中年にさしかかりつつある一人身の女性で、自らを振り返るのだが、とくに男性遍歴を走馬燈としそのうちの一人を桂馬に例えるのを秀逸として、この作家が書けば面白くならない筈がない。
葬式とオーロラ・・・積雪地帯の高速道路の描写がいい。恩師の葬式に出るために雪の舞う高速をいく男性が、PAでオーロラを発生させる(小型の見世物として)ことを職業とする女性と淡く交錯するはなし。いまさら自立なんて言葉も死語というくらいに、たったひとりでオーロラ営業をするという仕事をたんたんと受け入れているこの女性の風情はこの作家ならではで、繰り返すが面白くないわけがない。
しかしこのPAでのやりとり読んで思うのは、純文学作品では住宅地に隣接する公園での男女の出会いみたいなのがすごく多くて、光景としてあまりに貧困なんじゃないか、と。つか、PAでつい知らない同士話をするといくことはあるかもしれないけど、公園で出会うことなんてあるか?ちょっと異常っぽいんですけど。
ま作家でクルマを乗り回す人はどうみても少なそうで、というかクルマに関するエッセイなど見たこともないからひょっとしたら殆どいないかもつうくらいで、知らない世界は書けないそれが身の丈なのだから仕方ないといえばそれまでなのだが、これだけクルマが溢れているのになんと乖離していることか。