『火山のふもとで』松家仁之

新人でこの長さ。新人というからには、新機軸な試みをしているかもしれなくて、そういえば題名もあまりリアリズムっぽくない・・・・・・。読み通すの辛いかなと思ったら、なんてことはない、むしろ恐ろしくアナクロな小説でありました。新しさみたいなところは皆無のリアリズム小説。小説でできることはほぼやりつくされている、もはや過去の反復のなかから何かを掴み取っていくしかないかも、という言い方がときおりされたりもするが、新人でここまで新しさがないというのも余り記憶にない。
良いふうにとれば、読むものに殆ど違和を生じないくらい過去との連続性がある、それだけ過去の文法を自らのものとして吸収しているのだ、というふうにも言えて、たしかに技量としてはもはや新人では、これはないだろう。情景のしっかりとした喚起力、それの心理への織り込み方、人物の造形、あるいは専門的な話題の詳しさの辛うじて読者の興味の範囲内にとどまらせるその按配などなど。
しかし読書の悦楽というふうにはならなかった。なってもおかしくないのになぜかといえば、どうにも魅力に乏しいという答え以外にない。主人公が暮らしながら建築の設計を現場でいちから学んでいく夏の別荘的な建物のその造形ひとつとってもそうだし(この建物が山のふもとにあってそれがそのまま題名の由来)、主人公が勤める設計事務所があらたにコンペに出す図書館のアイデアも更に魅力がない。
そして一番何より出てくる人物のほぼ全てが魅力がない。何かというと一家言ありそうな、あるいは言わずとも私は分かってますふうな鼻持ちならない人物ばかり。思うに、私はこの小説に出てくるような人物とは接したくないとずーっと思ってきたがために今の自分の境遇があるんだなあ、というそんな感じ。とりわけ主人公と付き合う女性ふたりと、後々独立することになる直属の上司的な人物が、人物として激しくイヤだ。なにこの賢しらが前面に出たかんじ。
べつに主人公があまりにもモテモテだからとか、殆どみんな外車乗り回しているからとかそういうことではないよ。何しろ現代の話ではないからね。クルマのなかのカーステレオでブラコンだかAORみたいなのだか聴いちゃったりするし。つまりは、まだ未来というものが一般的には信じられていた頃の日本のはなし。そういう意味では懐かしくあの頃を思えるような人にとってはそれなりに需要のあるものかもしれないし、著者の青春時代ときちんと結びついているものかもしれない。小説デビューするもの誰もが、貧乏でもない人までがへりくだって、未来のない話を書かねばならないなんて、それこそ無茶な要求だ。でも正直いまこういう小説が純文学誌の巻頭に掲載されてあるということはどうにも違和感がある。
あと、小説が保守的でアナクロなのは構わないとして、あまりにこっちの予想通りに物事が運んでしまうのが興ざめしたのも付け加えておきたい。途中からああこの図書館コンペでは、きっと何らかの理由で勝てないだろうなあという予感はその通りだし、こういう所なんかいかにも全面的なハッピーエンドを避けるいやらしい純文学らしさも感じるし、主人公が入所したばかりの設計事務所で他の先輩は「〜さん」づけなのに、主人公と後々付き合うことになる女性二人が、この二人だって事務所の先輩なのに最初からファーストネーム呼び捨てで物語が進むのだ。それがあまりに不自然すぎて、あ、これひょっとして最初はさんづけだったのが途中から呼び捨てに変わるという語りの不自然さを避けるためなの?主人公が呼び捨てする関係にのちのちなるということなの、と思ったらその通りだったのには驚かされた。