『給水塔と亀』津村記久子

最近はエンタ系読み物誌もふくめあちこちで津村氏の名前を見かけるので、作者に近しい若い人ばかりが主人公であるということはもう既に無くなっているのかもしれないが、少なくとも私が、でないものを読むのは初めて(と思う)。定年退職した男性が、幼い頃に住んだ街に戻ってリタイヤ後の人生を送り始めようとする、そういう話。
津村氏らしい凝ったところのない文章でさらっと読めてしまう小品であるが、見逃せない点が含まれている。この男性が、死別でもなく離縁でもなく、または同性愛者でもなく、ずっと一人身であったということである。実際にはこの世代にはそういう人は少ないのかもしれないが、こういう人は今後間違いなく増えてくる。この主人公は、定年退職まで勤められた、どちらかといえば幸運な部類に入るので、少しばかりずれてしまうのかもしれないが、このところの文芸作品では、独りで生きていくことに焦点をあてたものが大分見られるようになってきた。どれもみなきちんと今の世にキャッチアップしようとした結果だろう。惜しくも三島賞を逃した柴崎友香の怪作がすぐに思い浮かぶが、青山七恵の同じ文學界にこのあいだ載った作品も、たった一人になって手を誰も差し伸べてくれなかったときの恐怖について書いていた。
さっき、この世代には少ないかもしれないと書いたが、実際にはむろん居て、私も知っているが、けっこう達観する感じも(あくまで傍から見れば)あって、周りを心配させるような雰囲気もなくて、だからこそ更に一人身になってしまうのだろうけれど、その人もそうだが「一人身=偏屈」という感じもなかったりする。だからこの小説の主人公の感じは私には少し分かるものがある。で、昨今はネットが発達してるから、田舎暮らしでいこうとなったら通販とか当然そういう手段も選択肢に入るし、近隣のスーパーがどういうふうになっていてコンビニとの兼ね合いはどうかなども、昨今の具合をちゃんと織り込んで書かれていて、これらだけみると一人身というのは悪くないね、ということになる。
むろん、一人身は悪くない、ということを、そんなに深刻ぶらずに書くことには一定の役割があるし、この小説はその役割をじゅうぶんに果たしつつ、仕方なしに飼われていた亀を主人公が引き取ることにもポイントがある。ここでは、亀は、いっけん、居てもいなくてもよいものに見える。が、居てもいなくてもよい、というのは一番ありがちな我々を捕らえようとてぐすね引いている黒い穴である。それに囚われたとき、ひとはすでにそこへ向かって坂道を転がり始めている。その穴をふさぐ行為=亀を引き取るという行為が、この小説ではそれほどの思慮もなく出てくる。これは、その迷いのなさが、自身にも向けられるようにという祈りのようにも思える。