『ライ麦畑でつかまえてくれ』佐藤友哉

編集側と行き違いみたいなことがあって以降、戦後文学の再読という当初の目論見とはちがって、とくに震災があって以降は、なんか愚痴というか好きなことしか書いてないような感じだったけど、だからこそ楽しませてくれた部分があったように思う。お疲れ様でしたといいたい。
ただ、震災後それについて作家が書かなかったことにたいして太宰を例に出してあーだこーだ言うのは、これは違うだろうなあ。佐藤は、もう文学なんてとっくに力失っているんだからそれでいいんでしょうけれど、と一方への逃げ道を用意しつつ、もっと書くべきなんじゃないの、この原発災害にかんして、と言っているように思うのだが、いまアンケートをとれば7割がた原発は縮小という世論のなかで、文学が何を書けっていうんだろう。思えば国民一丸となって鬼畜米英やっているときにその時代の文学者はさんざん戦意高揚やっていたわけだが、それをやれってか。やらないところから、反近代文学である現代文学はスタートしたはずなんだが、いまさらそれをすべてなしにするの?
ところで、太宰を例に出すのは違うと書いたが、もし太宰がこっそり政府の意のままにならない(=反戦)の気分を忍ばせたことを正しく例にとるなら、いま書かれなければならないのは、ノーベル賞作家を筆頭にして反原発一色になっている空気に抗するような、反・反原発の気分を忍び込ませるような小説こそ、となるのだ。私なんかはおおいにそれを歓迎するけどね。