『架空列車』岡本学

「新人」の人に厳しいことを書くのは気が引けるのだが、意を決して。選考委員の幾人かが高評価をしているのが全く信じがたいがほどに、私はこの小説に終始乗れなかった(列車のはなしなので「乗れなかった」と表現してみたわけだが)。とくに評価のポイントとなるところ(列車のはなしなので「ポイント」などとしたのだが)、主人公は移住先の地方都市で列車が走っていないところに空想で列車を通して楽しむということなのだが、複数路線を想定するなかで急行鈍行の別やわざわざ乗り換えのタイミングなどを考えて時刻表など作ったりして、そういう懲り方、構築の具合が評価されたのだろうが、その空想の路線を自転車で走ってシミュレートするなかで、現実に道路に存在する信号に止められてなんで悩むのかさっぱり分からぬ。路面電車
信号で止められたのなら、その止まっていた分の時間を引いて時刻表を作ればいい。そもそも頭のなかの空想に過ぎないんだから、道路など踏み切り作って突っ切ればいいし、山もトンネルし、谷も陸橋すればいいんじゃないのか?もし空想のなかでまで、コストが、とかいうなら、今の地方都市ではどんな列車だろうとコストはペイされない。どんな空想も成立する余地がない。
文学的にいえばむしろ導入部での、口で絶望してというわりには、ちっとも絶望が感じられないリアリティのなさのほうを、「絶望をなめんなよな」と問題にすべきなのかもしれないが。(なにしろ絶望してほとんど手ぶらに近い状態で田舎に引っ越してから、こんどは退屈に絶えがたくなるとかいうのだが、退屈などもっと早い段階でつぶして、それでもどうにもならなくなって絶望するのではないか人間というのは。退屈を埋めようとあれこれ探すことをしている心持の人間は、ただの余裕ある暇人にすぎない。)
震災が起きてからの後半で、一点良い箇所があって、「消息を知りたい人間がいるわけではないのにとにかく情報が欲しかった」という記述にはリアリティがあった。社会的生物としての人間の真実がここには描かれていると思った。