『十三月怪談』川上未映子

まごうことなき傑作。単行本未収録だとしたらこの号の新潮は宝だな。
最愛の人を亡くした人のその後を描いた作品。妻を病気で亡くした夫は、これ以上ないくらい悲しむのだが、どうしたってその悲しみというのは薄れるものであって(でなければ人は生きられない)、相当の期間ののち、別の女性と付き合いはじめる。それを、この世ならぬ存在となった(手っ取り早くいえばユーレイとなった)妻が、傍らでその始終をみている。
相手のことを考えればこそ、愛していればこそ、万が一自分が先にいなくなったような場合、ずっとひとりで自分の死に、面影にとらわれて生きるより、新しいなにかを見つけて幸せに暮らして欲しい、などとわれわれは思いがちだし、この女性もそうで、生前もそんなふうに実際に言ったりもするのだけれど、で実際そうなってみると悲しくもあり、しかしそれを乗り越えようとしたりする。そんな様子が描かれる。
内容がこれだけならば、そうたいした事はないのだが、いや、川上未映子が描くとこれだけでも充分入り込ませるものがあるのだが、圧巻なのは、あたかも二部構成のように、この二人のその後に別パターンが後半に、並行宇宙的に用意されていることで、そこでは夫は女性が亡くなった後、誰とも付き合わず、亡くなった妻を思い続ける男性の姿が描かれる。彼は誰とも付き合わないどころか隠居するかのように田舎に帰り余生を過ごす。まったくもって後ろ向きで、生前妻が言っていたことも裏切っている。しかしなぜだろう。私にはこちらのほうに希望を感じるのだ。
パーカーというのは重ねあわせがないので、ユニセックスに着れるのだが、亡くした妻のパーカーを着続ける男に圧倒的なシンパシーを感じてしまう。でも、それでいて、じゃあ自分が先に亡くなればそんなことしてくれるな、とも思ってしまうわけだけれども、亡くなった人の意思を裏切るとかそういうことではなくて、もう囚われてしまうなら、それがその人のその後のありのままなら受け入れるしかないのではないか。
そのようにして意思を裏切られ、しかしそれは意思を残さなかったことでもあるから、妻は後半ユーレイとして現れない。でも残されたものが囚われて、夫がパーカーなど着ている限り死んでもいない。亡くなったものに囚われて生きることは否定的に言われることが多く、じっさい自ら後を追う場合だってあるので否定的にいわれるのも仕方ないが、それでも生きている人々に対して囚われることは決してダメなことではないんだよ、といっているような小説で、これは希望の小説だ。