『奇貨』松浦理英子

中盤から後半にかけて主人公が同居人の部屋に盗聴器をしかけるあたりで動きがでてきてがぜん面白くはなったけれど、多くは、性交渉の気配すらなく友人として同居するストレート男性とレズ女性を中心として、性、あるいはもっと広くコミュニケーションというものをめぐって交わされる会話、考察によって占められていて、純文学らしい作品ではある。
同性愛体験がありながら、基本的には異性愛者で、でそれがバイセクシャルなのか興味本位にすぎないのか、というところを突き詰めて、後者について「半端ヘテロ」なんて形容するところはやや面白いとは思ったが、この、その言葉を言ったほうの、主たる登場人物のうちの女性のほうには、しかし、読んでいてそれほどシンパシーを感じない。それは、私自身が具体的な同性愛経験のない半端ヘテロだからかもしれないが(若いうちにルーリードとかボウイとかロキシーとかああいう音楽に興味をもってしまうとそれも仕方ないとは思う)、「精神的なものでも性的なものでも高い水準で欲求を満たしてくれる相手なんて一生に一人めぐり合えたら幸運」というような世界観に、もはやついていく気が全く無いからである。ようするに枯れた。この女性は一度寝たことのある基本同性愛者ではない女性に執着してあれこれするのだが、そこまでしますのかいな、という反応しか私には起きない。
で男性のほうはどうかというと、ホモソーシャルな雰囲気に嫌悪感を示すところまでは大いに共感を抱いたのだが、同居女性により親しい友人(女性)が現れて、そこでの関係のほうがより親密に思えて彼女を失うかもしれないような気持ちになって、そこで、いままでホモソーシャルなものを嫌うがあまりに、友人と呼べるものがいるかいないかを重大なこととして捉えてこなかったことを反省するふうなのだが、女性同士の関係ともなれば、それがセックスレスな同性愛者同士であれひとつのホモソーシャルな雰囲気にもなって、こりゃもう異性としては入り込めないなとなって、さて盗聴器を仕掛けるようなところまで諦めずに行動したりするものなのか、とは思う。それに、ホモソーシャルな雰囲気を嫌う人というのは、実際は現実にはけっこういて、たとえば、女性をモノのごとく扱うような会話をけっしてしようとしない男性は私のまわりにもふつうに沢山いて、そういうところの経験はどうなんだろうとも思う。
それでもこの作品の評価を高くしたのは、孤独死だの無縁社会だの言われる現代においてまさにあっていい小説だと思ったからである。もちろん題名にあるとおり、この小説に出てくるような変わった同居関係など、それこそ滅多に見られるようなものではないだろう。しかし、たんなる男女ではなく、同性愛でもない関係を描くことじたい、様々な可能性を、ひらくとは言わないまでも、いくらかは風通し良くしたりするのではないか。血も繋がっていなければ、籍にも入っていない、セックスも可能性としてレス。そんなふたりの人間がひとつの共同体として生活したりということがどれほどまであるのか、ありえるのか。この共同体は子孫ということに関しては目をつぶらざるをえないが、どうせこの後どんどん社会が合理化されて職も減るだろうし人も減っていくのだから、べつにいいじゃん。