『新潮』 2012.6 読切作品

吸われていないセブンスターが道に落ちていて、拾おうか暫く迷ったとです。


朝日新聞によると金曜日の夜に官邸前でデモ、再稼動後もまだやってるんですね。べつに朝日が好意的に報じてるからイヤとかじゃなくて、以前から、首都圏からそういう行動を起こすのは筋違いとしか思ってませんが。
さいきん暑くなってとくに思うのは、働いていて同時に休日でもないのにああいうのに参加している人がいるとしたら体力あっていいですね、ってこと。そんな体力があったら、わたしはWIN5の予想をもっと綿密にやりたいです。
サンケイによると(なぜかサンケイも最近目を通す機会がたまにあり)、坂本龍一が「たかが電気」とか言ったらしくて、彼は9.11のときもなんかコメントしていましたけど、さほど哲学のないひとにこんな文化人としての義務感持たれても困っちまいますね。たかが電気と軽く考えていたからこそ、電力会社の怠慢も野放しにされたんじゃないか、としか思えないんですが。
たとえその場の勢いだろうとなんだろうと、「いのち」という、価値として抵抗しがたいものを前面にだして人を黙らせるようなやり口には抵抗いたします。これこそまさしくファシズムへの抵抗です。
ともあれ、たかが電気といえちゃう人はさぞや日々充実してるんでしょう。”電気をたかがなんて言うな、これでどれだけのお年寄りが救われて・・・”とかサンケイあたりならいいそうですが、私はそんなお年寄りや子供を盾にはしません。なにより自分が日々、電気なくしてはありえない享楽的なモロモロがなければ、なにを明日へのとっかかりにしていいか分からないから。持っている人はいいなあ、きっとちまちま作り上げてきた恵まれた生活を失いたくなくて仕方ないんだろうなあ、と思うのです。そういう意味では、ファシズムへの抵抗というだけでなく、私にとっては反・反原発というのは、階級闘争でもあります。(まあどうせ彼らは、本当は原発無くても値上げの必要なんてないんだよとかあーだこーだ言って、自分たちこそが被害者だというツラをするんでしょうけれど)