『癒しの豆スープ』よしもとばなな

なんも特別な材料を入れていないスープのせいで病気がよくなったとかの話からはじまるが、そういうのは気の持ちようというか、民間療法なんかでそういうふうにして「治った」という例も無数にあるわけで、こういうのまでまたオカルトかよ、と片付けてしまうのも作者に悪いだろう。
しかしそれにしてもいろんな物事を単純なことばで片付けすぎで、読んでいて嫌になる。「いるだけで風情のある哲学者のような人たち」で片付けられてしまう祖父母たち。そして彼らのこころにも「ドロドロがあったはずだ」とか書かれる。こういう記述を読むたびに、「いるだけで風情のある」というのはどういう状態かを、ドロドロがあるというのはどういう表情なのかを書くのが小説の役目なんじゃなかったのかよ、と毒づきたくなる。(確か同じようなことを昔も書いたなあ。私もよしもとも変わってないや。)
もちろん一人称視点で書かれているわけだから、主人公を単純なことばで世の中を片付けてしまうキャラというふうに、一応は合理化はできる。小説として決定的に間違っているわけではない。がしかし、それにしたって、どんなに単純な言葉しか知らないような人間だって、高校も卒業しなかったような人間だって、それなりの陰影がかならずあって、単純な言葉しかなくても、単純に片付けてばかりではないはずである。このへんはもしかしたら作者には「センスのある」人との付き合いしかなくて分からないのかもしれないが。(こんなふうに「センスある」だけで片付ける言い方は、センスがある人もない人もきっと嫌だろうなあ。)
ところで「ニュアンスとしか言いようのない何か」でこれもまた単純に片付けられてしまっているが、豆しか入れないならまだしも生の鶏肉を入れて、セロリや葱類も入れずして、決して飽きることのない絶妙の何かなんか本当に出来るんだろうか。豆もレンズ豆で、延々煮るようなものとも思えない(すぐ崩れる)。あ、トマトも入れるって書いてる。でもこれじゃトマトが味を支配しちゃうだろうから豆スープじゃなくて「癒しのトマトスープ」だろ。トマト入れるんなら砂糖とかで酸味を和らげとけば、そんな抜けた味にはならないで済みそうだけれど。それにしても、どうせスープを小説に出すならいくらかでも参考になること書けば少しは救われるのにね。