『ひらいて』綿矢りさ

どっかの写真家の写真が載ったり、ヒップホップ云々の連載がいつまでも終わらなかったり、連載も先細り感があって、「新潮」は、こりゃもう買わないかなと思い始めてから、柴崎友香の、それまでの作風を更改するような大作が載ったりして、そしてこの作品である。とんでもないものである。
新潮ゆかりの作家で言うと古川日出男あたりがよく疾走感だとかスピードだとかそんなふうな感想が聞かれたりもするのだが、そしてそんなものは私は彼にそれほど感じないし、よほど他の作家に疾走感を感じる人がいるのだが(絲山秋子とか)、この小説もとんでもなく疾走している。240枚という、長編に近い分量ながら、頭の中はなんか嵐が吹いていったようなそんな読後感なのだ。
でその嵐のあと、残していったものはといえば、以下ネタバレ注意。単行本たぶん出るだろうし、やっぱ驚きつつ読んで欲しいもの。
私のなかに残したものは、まさか「ひらいて」という意味深な題名が、股を開くことも意味しているとは・・・・・・。
というのは冗談だが、私のなかに若い女性同士の性愛の描写がぐっさり刻まれてしまったのは冗談でもなんでもなく、もうここまで詳細に描写する必要があったのかよというくらいのその描写に、いちばんにやられてしまった。しかも、だ。これが、生来的に同性愛者である者同士のそれであればそんなのは生理現象にしか過ぎず放っておけたのだろうが、まったく普段はその気のないもの(ノンケ)同士のそれは、もうヤバすぎます。だって、その気がないのに持っていかれる、私が私でなくなるというのは、エロティシズムの極致だもん。(2丁目方面ではノンケ喰いを生きがいのごとくにしている人もいると聞く・・・・・・。)
まったくどうしてくれるのだろう。女性にもてない私がもてなくても一向に構わないように自分のなかに温め育ててきたはずだったミソジニー的な何かが殆ど吹き飛んでしまった気がするよ。たったひとつの小説のせいで、これを読んで以来、ときおり接する女性の、髪の生え際の繊細な感じとか肌の肌理細やかさが気になって仕方なくなっている。いくらでも無視できたはずなのに。
すごく大雑把にいえばこの小説、ここのところこの作家が取り組んでいる思春期恋愛もので、恋愛といえば三角関係で、女性が主人公であるからして女2男1の関係だ。で、いまだに私の頭を痺れさせている事象がどうして生じたかというと、主人公である女性が、どうしても振り向いてくれない男性への意趣返しという感じも含みつつ、なぜそうなるのか分からぬままに、彼が相思相愛的に付き合っている女性を(何と!)寝取ってしまうのだが、この感じ、非常に私には分かる!のだが、どうなんだろう。あまりにもその人への想いが強すぎて、行き過ぎて、針が振りきれてしまってあるいはショートしてしまったかのように、いつのまにか関心がその人が対象としている方へ向いてしまうというようなこと。で、その強さは性差も超えてしまう。なぜというなら、人が人を好きになるということの裏には、人が好きになっているからこそそのものを同時に好きになりたがるというところがあって、その隠された欲望のほうが強烈だから。(しばしばそれは子供とおもちゃに例えられる。誰も関心を示さない玩具には見向きもしないのに、いざ誰かがそれで遊びだすと横取りしようとする。)
で、通常の段階なら彼女が好きであるからこそ私も彼が好きというような異性愛なのだが、それはベクトルが逆でも成り立つわけで、どうあっても彼が手に入らないならば、こんどは彼が好きである彼女を好きになってしまう。だから偽りではないのだ。半ば意趣返しのように始めたことのはずなのに、主人公のほうから、2回目は彼女に会いに行ってしまうところなどで、それは分かる。
などと、つい一番(あくまで私にとって)衝撃的だったところについて長々書いてしまったが、この小説の「ひらいて」は、こころをひらく、あるいは別の言い方をすればその人そのもの、包括的なそれをひらく、ということで、気がついてみれば、ここ二年弱くらいのあいだ綿矢りさが、本人の弁によればふたたび書けるようになってから主に「文學界」で発表してきた作品も、おおもとを貫くテーマはそれではなかったか。いや、「亜美ちゃんは美人」だけかもしれないが、あの作品でも亜美ちゃんに一番「ひらいて」くれたのはちょっとイタいヤンキーな彼で、またそういう彼だからこそ亜美ちゃんもひらくことができたという。
しかし、そういったところで、どういう態度・行動がひらいたことになるのか。これら諸作を読んでも、すくなくとも私には判然としないというか。とにかく言えるのは、事後的にしか、あるいは他者を通じてしか分からない、または、そこにはっきりとした定式がないということで、それがどんな借り物めいた言葉であっても、言っている本人にとっては「ひらいて」るつもりだったりすることもときにはあるのではないか、と思う。もちろんだからこそ、定式めいたものがないからこそ、小説というまわりくどい表現方法があって、そういうもので積み重ねていくしかないのだが。
この小説とは全く関係ないことを蛇足としてメモ的に書くと、このひらいているかいないかの違いの決定的だが微妙でもあるという問題は、吉本隆明が大衆の原像などといいつつも反核運動という大衆運動を嫌悪したことと私のなかでは類似して繋がっている。それがどんなに白々しい借り物の、ステロタイプで政治的、公的なコトバであっても、言っている本人にとっては魂の叫びのつもりだったりするからややこしい。で、あとになって夢をみていたようだった(ナチスを問われたドイツ人のことば)、とか言ったりして。