『お花畑自身』川上未映子

夫が経営する会社が傾いて、そのせいで、それまで住んでいた立派でしかも趣味のよい一戸建てを、急に手放さねばならなくなった主婦のはなし。その一戸建てはとうぜんそういう種類の家があつまるような閑静な住宅地にあるわけだが、不動産屋の仲介があって買い手と実際に会うことになり、で、その買い手は経済的に自立した、自分で稼いでそれだけの家を買うことができるようになった独身女性で、かたや主人公は専業主婦で経済的には社長である夫に完全に依存している。そういう意味では二人は対照的ではあるのだが、この下見での立会いの場面での落差のありよう、この場面がまず読みどころ。どういう事情で手放すことになったかは買い手には明かされないものの、新しく住むことになるかもしれない家を意気揚々と視察する人間の傍らで、庭の植木のひとつひとつから、家具、ハウスウエアの数々をあれこれ考え、育て上げるように守ってきた家を手放さねばならない人が立ち会う、この残酷さ。このような「喪失」にあった場合にいわれることとして、生きてさえいればなんとかやっていけるさという類の物言いがあるが、そんなのは観念的な戯言にやはり過ぎないのではないか、と思う。モノはモノでしかないさ、とか、ふたりの間に愛があればとかそんな言い方では、掬いきれないものがあるのだ人というものは。
主人公である転落専業主婦は、その家での生活が手放しがたく、売却して買い手の女性が住むようになってもその家を訪れてしまい、買い手の女性にあれこれ言われることになって、そのなかで、夫に経済的に依存していたんだから自業自得ではないのか、いまさら何を?とも問われるのだが、まったくもってこの女性の言い分が正しくて、にもかかわらずやはり残酷だなあ、と思ってしまうのだ。
でその後、この小説のハイライトで描かれる、売り手の女性が家を完全に諦めるために買い手に言われて取った方法、これが面白い。この、ある意味、二人して狂っているのではないかとも思われるような方法を描いたことによって、この小説はすごく後々まで印象に残る。