『フラミンゴの村』澤西祐典

この小説には主に描かれる人物とはべつに俯瞰的な語り手がいて、「わたしが読者諸君にこれから披露する話は〜」みたいに入っていくのだが、なんかいかにも19世紀、20世紀初頭の近代小説臭がするものの、非常にそつがなく読みやすく、それはよかったのだが、しかしその一方で意外性、驚きといったものを欠く感じで、すごく優秀な人が勉強して型どおりのことをしましたみたいなちょっと否定的なものも正直感じた。音楽に例えていうなら、スタジオミュージシャンフュージョン系の音楽やってるみたいな感じかな。せっかく「新」人なんだから、もっと過剰ななにか、固有ななにかを求めてしまうのだが、目鼻立ちは整っているものの今ひとつ魅力を感じない美人というふうに例えるなら、贅沢すぎる望みだと戒めたい。
というか、それどころか、そんなふうに否定的に感じていたのも、読み終わってよくよく考えてみるなら早計であって、この俯瞰的な語り手を持ち出したところなんか逆に良い判断じゃなかったかと思えてくる。
というのは、この小説の、妻や娘がフラミンゴになるという非リアリズムな現象を小説的現実としてどうリアルにしてしまうか、という点にはそれほど興味がわかず(小説技術としてはよく描かれている)、どちらかというと政治小説(政治的な生き物としての人間の、その政治の有様を前面にだした小説、人間という生物が人である部分を描いた小説)としての面白さに惹かれたのだが、その政治の有様のもっともリアル部分というのは、こういう俯瞰から立ち上がってくるのではないか、と思い始めたのだ。一人称で人物に寄り添い独白めいて振り返えるようにかたられたとき、そこにはときとして過剰な付け加えが生じないだろうか。余計なドラマが。
この小説にはそれがない。俯瞰の目があって抑制的に語られているからだ。最初読んだときはそれがむしろ物足りなく感じ、とくに村のリーダー的人物が宗教的な司祭と対立し反逆者の側についてしまったときなど、いまひとつ焦燥や落胆のほどが、その描きこみがたりないのではないか、などと思ったものだ。説得の結果何人かが向こう側についた、などと書くがそれぞれにもっと濃淡があるんじゃないのか。そして更には、分裂というものなどそんな綺麗にいくことがなく、いったりきたりがあるからこそ、結果としてもっと憎悪をたぎらせても良かったのではないか、もっと悲惨な、もっと修復不可能な事態までいきつくべきではなかったか、と。これでは終わり方が綺麗すぎる!村で唯一フラミンゴに変わらなかった女性みたいなエピソード入れるくらいなら、もっとこのハイライトを描きこんで欲しかったのに・・・・・・。
しかし考えを改めた。そういう期待こそが文学的に過ぎるのではないか。ときとしてこういう愚鈍な姿のままに登場人物を留めておくのも、これはこれでいいのではないか、と。
政治的な危機などというのは、分かりやすく劇的ないかにも反対しやすいような形では現れず、日常と連続した中でそうと気づかないうちに形成されるのではないか。もしかしたらいまも、どこかで私たちはそうと知らず誰かを抑圧し、誰かに対する憎悪を溜め込んでいるのかもしれない。
そういうわけで付け加えておくと、私のこの小説への評価点からすると、ラストにかんしてはあまり良くないなとせざるをえない。もちろん全体を台無しにはしていない。政治劇のハイライトのあとで、反対者もそうでない者も、それが生きるということに向き合った姿なのだ、というこの文章に出会えたことは幸せであった。この言葉をいれることが出来たのも、俯瞰な語り手がいたからこそだろう。