『二度めの夏に至る』古川日出男

震災のせいで、一時的に書けなくなって先延ばしした作品ではないか、と思う(多分)。
つまり構想自体は相当前にあって、しかも、私になんとなく残っている記憶によれば以前相当前に新潮に載ったプロローグ的なものの続編のように見受けられる。のだが、とくに何も編集からのそういう旨の断りはない。いきなりこの一篇だけを読んで楽しめるものなんだろうか。あるいは文芸誌というのはもともと、よほど記憶力に優れた人か、あるいは手元にバックナンバーをとってある人のためのものなのか、とも思ったりするが、古川日出男の場合は、第三の可能性が高い。つまりこの作家の一番の楽しみは、話の筋とかには関係してないんじゃないか、という。
語り口であるとか、内容のそこここに伺われるものの捉え方とかそういう部分を読む楽しみ。(もっとも作家本人は震災後のことを盛りだくさんに書いていて内容的にも力入れている感じなのだが。)
古川を一度好きになってしまった人にとってはきっと代えがたいものがあるのかもしれない。そのことにあれこれ言っても仕方ない。幾度も書いてきたが、私は、なんか意味不明に気負ったような、格好つけたようなこの文体はまったく好きになれないし、主人公の内面の記述のみならず、主人公の母親の手紙の文体までが古川語なのはなんだこりゃとなってしまうが、いっぽうで、私も誰になんと言われようと古内東子をこよなく愛するのだ。
長い感想を書くに値するようなものでもないように思えるのでまとめると、古川ならではの誰にも書けない唯一性。それは鮮明にあって認めるほかはなく、しかしそれいがいに、私にとってこの小説の存在意義は殆どない。
もっとも、内容的には続編がさらにありそうで、まだ終わっていないうちからこの判断は早計かもしれないが、小説内にでてくる公安だとか右翼だとか新興宗教だとかの有様が、これまでの幾多の小説で都合のいいように扱われてきた内容から予測できる範囲を超えるものは殆どなく、単純にいえば通俗的で、あまりにも期待できない。もっと驚きを、と思う。「想像力」と題うった雑誌の目玉作品として力不足すぎ。