『新潮』 2012.2 読切作品

ちょっとした便意を見逃さないようにして、便を柔らかく保つこと。これが痔を治す最大のコツだと最近身をもって知りました。


ちょっとした臨時収入があったので、「文學界」の最新号も買ってみたのですが、巻末で相馬さんが吉本隆明について書いていて、なんでも、原発事故があったあとも吉本は原発を否定しなかった、と。で、事故が起きてまでそんなこと言う吉本について一時ネットでは、「とうとうボケた」とか言われたとか。
相馬さんがそれについて突っ込んでないので書くと、吉本が原発肯定するのって、ボケてないからですよね。つまり反核運動がいちばん盛り上がった頃にそれについて文句言ったときから全然ブレていない。原発に疑問をいだいておきながら時代の保守化と添い寝するかのように何も言わず、いざ事故が起こると「そう思ってた、やっぱ原発ダメ」とか言ったりする軽薄さは、吉本には無かったということでしょうか。「じつは軍部の目があったんで嫌々書いてたけどほんとは戦争反対だったんだ」みたいな軽薄さを吉本はよく知っているでしょうからね。


思想の核にある部分というか、血肉化しているというか、思想以前の何かといえばより正確なのかわかりませんが、そういう部分と、衣服のように取り替えられる部分について、前者に依拠しつつ、後者については懐疑的であり続ける。というふうに、吉本の前項の話から教訓を引き出してみると、ファシズム的なものはまさしく後者で、負けた途端にあっさり宗旨替えできてしまうドイツ国民が典型的なのですが、この区別は書くのは易しいですが、けっこう難しいように思います。とくに事前には。ホンネとタテマエとは違って、いずれにせよホンネだからです。
むろん、みずからのそれまでの生活スタイルを見直すことを第一に行わずに、事故後になって「反原発」に宗旨替えするようなモノには懐疑的であるに越したことはありませんが、人をもっとも動かすのもこの「宗旨」なのではないか、とも思います。