『説教』墨谷渉

直近に読んだ作品があまりに面白かったので、ついほんの少し物足りなさを感じてしまったが、どんな傾向のことが書かれているのがある程度分かっていて、それでも面白く思えるというのは、良いことなのかどうか。もはやファンともいうべきレベルになりかかっていて、そうなると、何を書いてもオーケーということになり全く参考にならなくなるのだが、もとよりこのブログ、あまり参考になるというレベルのものではないし、と開き直っておく。
などと自分のブログについて悪く書くのはいっけん自虐的なようにみえて、しかしほんとうの自虐からはじつは遠い。逃げと言い訳で自分を強固に守っているからだ。遠いどころか逆ですらある。「群像」の鼎談では不思議なくらいそのことについて語られていなかったが、この作家の真骨頂は、逃げるところなど何もないところ、取り返しのつかないところまで落ちて落ちていくこと、そしてなぜかそこに快楽があること、を書くことにこそあるのではないか。もしかしたら、別段避けているわけでなく、そのような取り返しのつかなさに快楽を感じたことのない人には、そういう視点から語ることはそもそもできないのかもしれない。が、私には、そういう志向性がまったくないような作家の作品として語るのは、なにか欠落しているようにも思うのだが。
ちなみに今作では、視点が加虐の側からの小説である。俗っぽく分かりやすくいえば、M男性の視点からのものがこの作家多かったが、S女性の語りで物語がすすむ。で、中心となる行為は言葉なぶり、だ。主人公女性はキャバクラで男性に尽くすよりよほど自分に向いていると思い、男性をひたすら罵倒しまくるビデオに出ることを仕事にする。いつもいつも読むたびに、よくこんなこと思いつくなあ、と思う。
ただし、罵倒される男性は応募してきた素人男性で、罵倒されることに例によってカイカンなのだが、これまでの作品より少し衝撃度は弱い。「プレイ」が終われば、男性は全くではなくともほとんど元に戻れるからだ。中盤から、愛しているひとが無愛想であればあるほどカイカンなので積極的に妻を浮気させてしまう、まるでこの間の作品のような男性がでてきて、この設定にはよほどこだわりがあるのかないのか、でもここでその男と妻と浮気相手の男性との間で、主人公が訳分からなくなるあたりは確かに面白い。愛していないとされること無愛想に扱われることにカイカンを感じているんならいっそ別れろって話になるんだが、別れてしまうと無愛想にされることも何もできなくなる。・・・・・・投げ出したくなるのも分からなくはないよなあ。
ところで途中の、応募素人男性で無事定年まで勤め上げた自分の人生を徹底的に否定されたいひとの手紙を読んで思ったけれど、この自己否定の欲望は、たぶん人間が人間としての「尊厳」なるものが公に確立されればされるほど、それをひっくり返したいという、いかにも近代の宿痾というふうにも思えるんだけれど、どうなんだろう。それはあまりに一般的な解釈であって、この作家には、女性の角度や数値にも拘る部分があって、昔からよくいわれる「身体の復権」みたいなところにも背を向けているようにも感じられる。私の知識・力量ではこれ以上語れないけれど、復権とか回復ではないように思えるのだ、ここにあるのは。