『七月のばか』吉井磨弥

新人賞というのは到達点というより通過点なのでこういうケースもそこそこあるけど、受賞第一作からこれほどの力作とは、という感じ。この作品の載った号から遡って半年くらいの「文學界」のなかでは一番の作品だったんではないだろうか。
で、この作品には単純なある仕掛けがあるのだが、未読で読むべきかどうか迷っているような人がこのブログを訪れるようなことは、時間が経過していることもあって多分皆無に近いと思うけれども、いちおう明かさないで置こうと思う。もっとも本来ならこんな、仕掛けがあることすら言わないほうが楽しめるわけなんだけれども。
楽しめるというとちょっと違うのかもしれないが、より正確にいうならば、著者の仕掛けた意図に気持ちよくはまったとでも言おうか。で、なぜ気づかなかったことが気持ちよいかというと、その意図に一定のシンパシーを抱くからである。そうみえるべきでないものがそうみえることに、深く納得するからである。
手っ取り早くいってしまえば、その意図とはわれわれの生がいかに平板なものと成り果てているか、を示すことである。
なんだそんなことか、ここ数年さんざん人々の口から漏らされてきたことじゃないか、なんの目新しさもないではないか、という人もいるだろう。たしかに、意匠があたらしいかどうかというのは、それが少しもない小説ならば何だろうなあという感じにもなる。けれど、言いたいこと、書きたいこと、人を動かす核のようなものについては、古いからどうのこうのというのは本来ないはずだ。
この作家は前作でもそうだったが、ただ食って寝てHするだけが生きるということなのか、それで生きているなんていえるのかよ、という古典的な(近代的人間にとっての古典だが)問いを、つねに懐に抱いているように感じられるのである。書きたいことなど何もないというような、あるいはときにはその種のことを公言までする人の作品が、まま見られる中で、じっさいの所私がこの作家を一番評価したくなるところはここなのかもしれない。
で、かもしれないなどという言い方をここでしておくのは、今作については、この古典的な、あるいみ愚直な問いが、じつに見事な仕掛けによって表現されているからで、技術的にも目を見張るものがあるからである。まったく、誰もがきっと途中まで気づかず、誰もが終盤になって気づくように上手く出来ているのだ。ちょっとヒントっぽくなるけれど、ロードショー映画などもうディケイド単位で行ったことがなく、ピクサーには多少興味はそそられるけれどもジブリなど全く興味なく、またオリンピックをスポーツニュースのダイジェスト以外で見た記憶となると、体操で満点が連発され評点見直しのきっかけになった(とたしか言われている)ロスくらいまで遡らねばならない私のような奴でも、終盤近くになって、ある風俗嬢のなかで時間がたっていることで、ああそうか成る程ねと気づいてしまうのである。(もしかしたら、田中弥生氏のように綿密に読む人ならすぐに気づいてしまうかもしれないが、かといって、オリンピックを人並みに見る人でもそう簡単には気づかないだろう。)
で、さきほど我々の生の平板さというような言い方をしたが、そういういかにも当世風な、俗流社会学的ないいかたで、この小説を解いてしまうのは、作者にとっては願い下げかもしれないので、念のためいっておくと、べつだん作者はそれを一方的に否定的に書いているというわけではない。むろんそんな決め付けがあるとしたら小説であることの意味など殆どない。物語的な、夢を追う冒険的な生き方は確かにより覚悟が今の世では必要かもしれないが、それが安易さや弱さ、あるいは虚偽ということだってあるし、平板さを受け入れることだって、それはときにある種の壮絶さだってまとう、といったら大げさだが一定の覚悟が必要ということもあるのだ。かといって、覚悟をもって受け入れた平板さというものにひとはそんなに簡単に没入できるというわけでもない。あるいは簡単に没入できるとすれば虚偽はそこにはないのか? そんなふうにして、けっしてどちらかに極端に触れることのないのが、まさに「生きる」ということではないのか。いつだってわれわれは中間点のような位置に晒されているのではないだろうか。
・・・なんて思わず熱く語ったが、そうさせるものがこの小説にはあるということなのだが、勘違いしてもらっては困るのでさっき書いたことを思い出して欲しい。ここに描かれているのはあくまで平板な生である。少しおおざっぱに内容にふれておくと、主人公は風俗店(ヘルス)を経営する一家に生まれ、親も老いてきて家業を継ぐべきかどうか迷っている男性であり、熱い行動はなにもしない。
とくに趣味もあるわけじゃなく、何もすることがないときはスロット行くくらいで、どちらかというと冷めた人間だ。そして、迷っていると書いたが、どちらかといえば家業を継ぐほうに傾きかかっている。冒頭で、まったく素人のどちらかといえばうぶな、まだ生きていくことのなかで音楽家云々の夢をもてるような女性と付き合いそうなところまでいくが、自ら進んで諦める。平板でない物語ある人生に背を向ける。そして家業を手伝うかたちで、夢を抱いて失敗したような女性たちの風俗嬢への面接の仕事を行い、彼女たちと比べればぜんぜん自分はオーケーだと言わんばかりに平板な日々をおくる。(ちなみにここで出てくる様々な女性たちの生き様もこの小説の、とても面白い読みどころである。)
しかし、彼はその平板さに自足するということでもない。ここはとても重要だ。私はそれをいちばん象徴的に示しているのが、かれがハリウッド大作やジブリなどの家族揃ってみるような話題作の映画しかけっして見ようとしないことだ、と思う。映画通があれこれ映画通どうしで語りたくなるような、行間を読ませるような、いわゆる単館系というかインディーズ系というかそういう映画を見ようとしない。そういうふうにして映画を娯楽にしか過ぎないものではなく「大人の趣味」としてしまうような行為はまさしく平板さを平板さとして固定する自足させる行為だからだ。たぶんかれは、いまの世の中に合致するような、ミニマムな趣味にいそしみ、闇雲に夢を抱くような人をさげすむように、すすんで物語のなさを受け入れるような生き方をもっとも嫌っているのではないか。自分が受け入れようとしているものを、積極的に語り受け入れるようとするひとを。
また、公園のホームレスがもしかしたら天才かもという考えを抱くようなところなども、平板ではなく物語としての生をすっかり彼が否定しきっているのではない証拠ではないかとも思うし、何より冒頭に出てきた素人女性をふたたび想うところで感動的にこの物語が終わるところがいちばん語っている、と思う。冒頭と終章にどんなできごとがあったかを思えば、この小説から多くのものを受け取れる。主人公が嫌うような行間を読む行為は、この小説を読むに際しても必要ないのかもしれない。