『道連れ』北野道夫

ローカル線のなかで、たまたま逃げた女をそれとなく探し続けている男と、男から逃げてきた女が、ななめ向かい合わせに座る。そして、この男と女が交互に、それぞれの主観で語るという小説なのだが、男のほうのパートでは、いま目の前にいる女と、男が探している逃げた女がいつのまにか重なって語られるかのようで、女のパートでは、逆のことが起こる。うまく表現できないが、たとえば男が、逃げた女がこういう行動をしているだろうとあれこれ想像することと、げんじつに女が行動していることをつなぎ目をぼかして描いたりしているので、表象があちこち移り変わるようなそんな感じに陥る。あるいは現実にあったことかどうかがあやふやになり、やがてそれがあった世界となかった世界があるような、パラレルワールドが複数あるかのような感覚にも陥る。あるいは、純文学においては、わりとよく書かれることなのかもしれないが、「見る主体」と「見られる主体」が分離・対立し、「見る主体」を疑いのなかに陥れるかのようでもある。
こういうところは非常に技巧が感じられ、読んでいて面白いなあと思う部分もあり、たまたま(新鮮さのあまりない)新人作家の競作ともいえる構成ともなった今号のなかではもっとも文「芸」っぽさがある。
たしかに、たとえば、他人のなかで、その他人の想像のなかで生きることと、自分が生きることを比べた場合、その自分だって自分の頭のなかにしまわれていくのだから、頭の中と頭の中、そこにどんな違いがあるというのかという話にすらなりかねない。そんなことも頭をよぎったりはする。
それでも総じてやはり欲をいえば、小説というのはもう少し裏切られたい、予想のうえをいくものであって欲しい、出会い感覚がもっと欲しい、そんな気もするのが正直なところ。読み終わった後に、では自分になにが残っているかを感じながら、そう思う。アドレスVは残る。




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ちなみに今までいちいち触れませんでしたが、「文學界」、巻末の相馬悠々氏のコラムは、震災後それについてかかれた文芸誌のことばのなかでは、もっとも頷かされる事が多いものです。応援してます。