『文學界』 2011.11 読切作品

冬場はいつもスネが乾燥して夜中に掻き壊すため、毎年別のフットクリーム的ものを買うのですが殆ど効果なく、でも塗らないよりマシなので塗っていたのですが、先日職場のオバサン連中が話しているのが耳に入ってきたワセリンを試したところ、効果てきめん! でも、まもなく冬も終わりです。


さてUFCジャパンでしたが、昔の名前で出ています、とりあえずネーム揃えました、的な日本人選手の試合は予想通り見所がなかったですね。まあ期待していた人は殆どいなかったと思いますが。
といって期待したフランキーも、責めあぐねるどころか、一発もらう悪い癖がでたというか、残念でしたね。私はフランキーのファンなのですが、それでも今回は相手の強さが出ていたと思うし、これでこないだのニックディアスの試合みたいな判定でフランキーが勝ってもあまり喜べない、むしろUFCにはもう熱くなれないなあ、というところでした。
たしかにフランキーのほうが当てていたかもしれないしタックルにも出ていましたが、こういう競技が成功するかしないかは、目が肥えた人が判定する細かいポイントよりも、目が肥えていない人がいかに納得できるかにかかっているとは、これは間違いなく言えるでしょう。(評論家も文壇も相手にしなかったハルキさんが大成功しているように、かな?)
精神主義を小バカにするように技術で圧倒するというのも格好よいときはあるけど、最終的に何が納得させるかというと、ようはガッツです。


ところで東北のガレキ問題についてあれこれ書いてきましたが、かの有名なハシシタさんが「日本人として情けない」みたいな発言しているの聞いて、なんか冷めつつあります。同じ日本人かどうかじゃなくて、理性の問題だろこれ・・・・・・。もちろん「理性万能でいこう」と私は言いたいわけでもなく、もちろんいま一番理性・科学が失墜しているからこそ逆に賭けてもいいんじゃないか的な、問題企業の株を底値で買うみたいな気持ちもないとはいえないけれど、とにかく今の段階で、反対者の不信を愛国心だのなんだの共同体感情で押さえ込もうというのは感心しません。みせかけの対話でもって事を運ぶような方法にはもうだまされないぞ、ただただひたすら反対じゃという反原発・反放射能の人もいるでしょうが、それは何でもかんでも反対することで対話の場から排除され結果として公聴会みたいなのが形骸化して状況がさらに悪化するという過去にたどった道で、いずれにせよ理性による対話以外にはないし、あれだけのことがあってさえ原発を導入しようとする国があるくらいですから、そんなに簡単に現代において科学・理性が敗北するとは思えないんですが。たとえば自民党の河野議員のように反原発でありながらガレキ処理は問題ないとする人もいるわけで。たしかにガレキ処理はそんなにノンビリいってられないといわれればそうなのですが・・・・・・。
そんな冷めつつある私にとって、例えば沖縄の子供たちに雪遊びさせようというイベントが本州から沖縄に移住した人々の反対で中止になったニュースなんかに対する反応で、彼らを狂ってるだの何だの言う声がネットでみると大きいのにはがっかりです。たしかに沖縄に持っていった雪は大陸からの低気圧が運んだものでしょうから何の危険もないのは確かなんですが、ガレキ問題なんかと違って、べつに中止にしたところで誰かが大変に困るわけでもない。いくら本州から行った人であっても、すでにそこに住民票移して住んでいるんならその人たちの声こそが反映されるべきでしょう。まあそこの地域で彼らが少数派でしかなかったら、べつのところへまた移動するしかないんですが、いずれにせよ、小学生向けのイベントなんて住んでいない人たちが外野からあれこれ言うほどの問題でもないはずです。
東北=ケガレみたいな風評・雰囲気があるなかで、一方ではなんか原発事故いぜんにはなかったような同調圧力が生まれつつあるかのようで、なんか複雑ですね。どっちもおかしい事なんですが、前者に反対しようとすると後者になりかねないのが、なんとも嫌なかんじです。
また、共生、シンパシーに重きをおく左派系・リベラルの人々のほうがガレキ処理に積極的に動いてもいいはずなのにそれがないので、国士さん的な人にあれこれ言われる面もある気がします。反原発と反放射能(つか嫌・放射能?)が微妙にリンクしちゃっているのがどうにも。